35 鶴ヶ岡城跡 ~回想録⑤~

もとは大宝寺城といった。
鎌倉期以来、武藤氏が君臨していたが、戦国の波にのまれ滅亡。上杉、そして最上の支配となった。

建造物は一切残っていないが、城域の輪郭はほぼ原形をとどめている。

鶴岡城跡 二ノ丸西門跡 水堀

亀ヶ崎城の件でも触れたが、酒田湊に大きな亀が上がったことから、酒田の東禅寺城は亀ヶ崎城に、大宝寺城は鶴ヶ岡城と改称された。最上義光の作業である。

鶴岡城跡

大正天皇即位を記念し建てられた大寶館。
物産陳列場、図書館などとして使用されたという。市指定の有形文化財だ。現在は郷土人物資料展示施設。

鶴岡城跡 大寶館

藩祖・酒井忠次は徳川四天王の一人だった。
三代忠勝の時に入封し、幕末まで治めた。

江戸中期。日光東照宮の修理などで財政難に窮していた庄内藩は、本間光丘という男に藩財政の立て直しを求めた。日本一の大地主・本間家の財力については触れたが、庄内藩の財政危機を救ったのは他でもない、その本間家だった。

また、「三方領地替え」といって、借金まみれの武蔵川越藩主・松平斉典が、松平が庄内へ、庄内藩主酒井氏は越後長岡へ、長岡藩主・牧野氏は川越へ、という身勝手な転封願いを画策した際、庄内藩の領民が江戸へ出向いて幕府に領地替えの取り下げを直訴する。

普通、幕府へ直訴する時はバカ殿を引き摺り下ろしたいときと相場は決まっているが、この時ばかりは領民が酒井氏を守ろうと、直訴の無礼打ちの死罪覚悟で行動を起こしたのだ。この勇気ある行動と、酒井氏と領民との信頼関係を幕府は称賛。転封は撤回となった。

鶴岡城跡 中ノ橋跡

幕末・明治の戊辰戦争では、会津藩と佐幕派の双璧として戦い、凄まじく強かった。
本間家の資金力を背景に、洋式の銃を揃え、明治政府側に与した諸藩をなぎ倒し、戦えば必ず勝ち、敵を庄内の沃野には一歩たりとも足を踏み入れさせなかった。

庄内藩の進撃は、同じく洋式武装を整えた佐賀藩によって遮られ、やがて列藩同盟の国々がすべて降伏したことにより、庄内藩も降伏。一度も負けのない降伏だった。
総兵力の半数以上は農民だったという。

明治10(1877)年、領民により庄内総鎮守として初代、2代、3代、9代藩主の御霊を祀る荘内神社が本丸跡に創建された。

鶴ヶ岡城跡 荘内神社

現在は、御角櫓の復元計画があるらしいが、どうも進んでいないようだ。

鶴ヶ岡城跡 本丸御角櫓復元計画

この時2009年。今もそのままだろう。

鶴ヶ岡城 御角櫓跡

ふらっと、もう一度行ってみっかな。
雪の季節なんかいいだろうなぁ。
そんな事を思った。


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