41 能登の城めぐり回想録① 末森城

2011.05.01(日)18:30
北陸飛騨浦賀人旅の〆として、Kのリクエストで立ち寄った末森城!!
もうすっかり宵の口で、恐ろしい夜の山を登るのであった汗

加賀国と能登国を結ぶ交通の要所である末森城は、越中国地頭であった土肥親真(どいちかざね)によって築城されたという。
戦国時代の人だ。後、上杉謙信の侵攻に降伏し、そのまま末森城を与えられていた。

末森城跡 標識

能登畠山氏の家臣だったとする説もあるが疑問符もある。
越中、能登で勢力のあった畠山氏と、軍神・上杉謙信の間で上手く立ち回ったというのが彼の所在の謎の真相かもしれない。

その証左と云えるかはわからないが、織田の柴田勝家軍が攻めたとき、これも降伏し、前田利家の与力的な立場をゲットしている。
さらに前田利家の妻・まつの姪を娶り立場を固めている。なかなかの世渡り上手だったのだろう。

史跡 末森山古戦場

本能寺で信長が死ぬと、羽柴秀吉が一気に台頭。天下人への道を突き進むが、立ちはだかったのが織田信雄と徳川家康の織田・徳川連合軍だった。
羽柴と織田・徳川連合軍が小牧・長久手で対峙すると、それに呼応し越中の佐々成政が羽柴側の前田と対峙・末森城を15000の兵で囲んだ。

末森城跡

宵の口の末森の山登りは、気の小さい浦賀人3名には充分肝試しであった。
奥村助右衛門好きなKは張り切ってどんどん登っていく。

この城は奥村永福…「花の慶次」という漫画の影響で奥村助右衛門といったほうが通りが良いのだが…が、佐々成政に攻め立てられた時に1500という10分の1の寡兵でこれを死守し、援軍到着まで持ちこたえた。
この戦いの凄まじさは、先の土肥親真の弟である土肥次茂が討死するなど両軍で750人の死者が出たという。

末森城跡からの日本海

これを世に「末森城の戦い」という。

本丸までは急いで15分程かかった。ゆっくりなら20分か。
本丸には末森城の案内文と、末森城の戦いの案内文があった。

夕陽が沈んだ後の日本海が見えている。
水田と海の境界があいまいになる時間帯だ。

2011年は東日本大震災のあった年である。
それから二ヶ月経っていない時期。海や、越前の海に乱立する原発が恐ろしかった記憶がある。

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