19 金沢城跡 ~復元進む古城址~

金沢城下を歩いてみると、城下町の名残だけでなく、金沢城そのものの遺構も良く残り、よく保存整備されていることがわかる。

金沢城は、城下をすっぽりと土居や堀で囲んでしまう、「惣構(そうがまえ)」の構造となっている。
神奈川県の小田原城に代表される惣構という城下機構は、元々は中国の城郭都市からヒントを得ている。

要するに、城そのものが自給自足を可能にできる仕組みで、長期の籠城に耐えうる構造となっているのだ。
といっても、そういった時代は戦国末期には終わってしまった。大砲の出現と、長期籠城を覚悟した城側に付城を造り、超長期攻城の出来る体力のある強国ができたからだ。

秀吉は小田原を落としたが、小田原を参考に造った惣構の大坂城は徳川に落とされた。
一見無敵の惣構の城は脆さを孕んではいたが、泰平の世ではむしろ経済的に成功した形だったと言える。


金沢城の惣構は二重構造である。
遺構は、何の前ぶれもなしに町中に現れる。

東内惣構堀枯木橋詰遺構。主計町の入口近くにある
金沢城跡 東内惣構堀枯木橋詰遺構

惣構の堀は、広い所では10m以上のはばがあったことがわかっているが、江戸中期から後期にかけて、土居から石垣に改築されるとともに幅も狭められ、現在は水路程度の広さになっている。

主計町茶屋街を挟んで西内惣構緑水苑内遺構があるが、ここでは土居の高さがわかる。結構な比高がある。

せせらぎのようになってしまっている水の流れも、かつては満々と水が湛えられていたのだ。

金沢城跡 西内惣構緑水苑内遺構

なんとなしに流れている川のようなこの流れも、実は城郭の機構の一部であった。
知っていればより楽しく、知らなくても風景として充分に快い。

金沢城跡 西外惣構 旧宮内橋詰遺構

都市公園として整備された主郭の一部以外は苔むした古城址そのものだ。
川口門跡もその一つ。

金沢城跡 川口門跡

公園の一角にも櫓台を遺している。

金沢城跡 いしかわ四高記念公園

惣構の内側、今は金沢城公園となっているお城の外周を見てみる。
平成27(2015)年3月に復元整備が完了した「玉泉院丸庭園」側から迫ってみる。

かつて玉泉院丸の外郭には「いもり堀」という広大な人口の峡谷ともいえる水堀があった。
いもり堀の石垣は、下部が土の斜面となり、上部に石垣を積んでいる、「鉢巻石垣」の構造である。

かつては斜面の半ばまで水が張られていた
金沢城跡 いもり堀の石垣(鉢巻石垣)

復元の進む金沢城跡。
第二期整備計画が2015年に完了したが、第三期計画では鼠多門を復元するという。

金沢城跡 鼠多門復元準備

今は道路になっているが、尾山神社(かつての金屋出丸)と玉泉院丸へ続く鼠多門の間は水堀であるいもり堀があり、鼠多門橋が架かっていたという。

金沢城跡 明治初めの鼠多門・鼠多門橋

部分的だが復元されたいもり堀。
広大さがわかるがかつてはさらにこの先の道路まで幅があったという。

金沢城跡 いもり堀

付近には石垣の積み方や、普段見ることのできない石垣の後ろっかわが解るモニュメントが置かれている。
石垣博物館と言われる金沢城ならではだ。

金沢城跡 粗加工石積

玉泉院丸の復元により、兼六園と隣り合わせの石川門口、大手門口に続き、メインの入口となったのは玉泉院丸口だ。
早速上ってみると、復元されたての庭園が眼前に現れた。

金沢城跡 唐笠から玉泉院丸庭園

坪野石を使った石垣。
金沢城の石垣は戸室石を使っているが、ここだけは坪野石を使用している。

色合いが黒色で、混在して使用しているために、庭園ならではの見て楽しめる石積みになっているのだ。

それらしく書いてみたが、実際どこのことだかよくわかっていないw
金沢城跡 坪野石石垣

落差7mの階段状の滝は、辰巳用水を二の丸から通し、色紙短冊積石垣の下部前面の滝壺から地中の水路を経るという、大掛かりなものだったようだ。

金沢城跡 段落ちの滝

玉泉院(ぎょくせんいん)。俗名を永姫(えいひめ)といった。
彼女は織田信長の実の娘にして、前田利家の嫡男・利長の正室である。

贅沢!
そんな印象一点張りの玉泉院丸は、その名の通り玉泉院さんが剃髪し、晩年を暮らした場所であった。

金沢城跡 玉泉院丸庭園

玉泉院丸には「色紙短冊積石垣」というこれまた奇妙な石垣がある。

金沢城跡 色紙短冊積石垣へ

城好き垂涎の景色である。

金沢城最高峰の石垣郡 色紙短冊積石垣

色紙短冊積とは!!
色紙(方形)の石と、短冊(長方形)の石を意匠的に組み込んだ、防衛機能そっちのけのオシャレ石垣なのだ。

しかも、元来はV字型の石樋からは落差9mの滝であったことがわかっている。
つまり二の丸から引いてきた辰巳用水は、この石樋から9m落下し、人口の滝壺から地中へ入り込み、段落ちの滝へ流れ込んでいたというわけだ。

色紙短冊積石垣

前田家の藩祖・利家は傾奇者として天下に名を馳せた武将であったが、その子孫たちも遺髪を継ぐようにして金沢城のオシャレ化計画を進めていたのだ。

その、延長線上に今日の復元整備がある。といえるのかもしれない。


加賀金沢にはもう一つの顔があった。
一向宗!本願寺である。

彼らは源平合戦で有名な富樫氏を加賀から追い落とし、宗教の独立共和国といってもいい巨大な国家を樹立した。
その規模はまさに百万石であった。

戦国時代の末期までその勢力は衰えず、北陸全体にその勢力を伸ばしていたが、軍神・上杉謙信と対立し、魔王・織田信長と片っ端から戦国代表の男と対立することにより次第に消耗し、やがて織田信長に攻略された。

金沢御堂、尾山御坊などと呼ばれた寺院・・・実際は城柵堀を巡らした要塞だが・・・時代の遺構とされる「極楽橋」が二の丸と本丸の空堀に架かっている。堀の幅の広さに、その「巨城」をしのぶことができた。

金沢城跡 金沢御堂時代からの極楽橋

金沢城跡には、現在三件の重要文化財が遺っている。
一つは薪の丸の三十間長屋だ。

三十間長屋は幕末・安政の時代に火薬庫として建設された。
鉛瓦葺に海鼠壁をあしらった堅牢な二重多聞櫓だが、現在は金沢大学の書庫となっている。

金沢城跡 三十間長屋(重文)

入母屋造の突出部や、唐破風造の出窓があるあたり、オシャレ志向の金沢城らしい意匠だ。


本丸北側に遺る土蔵・鶴丸倉庫も幕末に建設された重要文化財の武器蔵である。
下部の切込石積がオシャレである。これもまた金沢城らしい遺産である。

金沢城跡 重文・鶴丸倉庫

金沢城にはかつて天守がそびえていたが関ヶ原合戦の後すぐに焼失し、かわって三階櫓、御殿が建設されたがこれも江戸期に焼失した。

城の中心部はその後二の丸に移り、現代における本丸は、不自然さがかえって自然なほどに、森、森、森となっている。

金沢城跡 本丸跡

これは妄想だが、金沢城の全ての復元が終わったと、し将来石川県知事が宣言した時、それでもうっそうと茂るこの金沢城本丸跡だけが森のまま残ったとしたら、それはそれで素晴らしいことなのではなかろうか。


金沢城には三御門と呼ばれる、城内の門でも特に重要な役割を担っていた城門があった。
一つは現存で重要文化財の石川門(後述)であり、一つは橋爪門であり、一つは河北門(後述)である。

菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓。本丸や極楽橋から二の丸へ出たときに広がる風景。右に橋爪門が見切れている

菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓。二の丸から

玉泉院丸口から上がってくると、よっぽど奇抜な巡り方をしない限り、三御門で最初に出会うのが橋爪門だろう。
右下に嫁の字の切れ端が見えるが、橋爪門の規模の大きさが窺える。

正確には橋爪二の門と言える。
2015年3月落成の、復元ホヤホヤの城門である。
一の門は高麗門形式で、こちらは櫓門だ。
枡形構造の橋爪門は二の丸への正門、つまり本丸は放棄されているので政庁としての二の丸への正門として、城内で最も重要な門であった。

構図は三の丸から入った時で、実際は二の丸から三の丸へ出ていく方向であった
金沢城跡 橋爪門(復元)

その、橋爪二の門の敷石もオシャレそのもので、正方形の石を斜め45度に敷き並べたものであった。
これは御殿の玄関周りの敷き方と同じであったことがわかっており、この門の格式の高さをものがたっている。

金沢城跡 橋爪門の敷石 四半敷

三の丸へ出ていく。
素晴らしい緑の芝生の向こう側に、復元された 橋爪門続櫓・五十間長屋・菱櫓が並んでいる。
金沢城で記念撮影をするならまづここを選びたい。

金沢城跡 菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓(復元)

2010年に復元された河北門は、金沢城大手から三の丸への正門であった。

金沢城跡 河北門(復元)

橋爪門同様、復元に当たっては当時の姿そのままを目的に、工法から忠実に再現されている。
2008年の夏は、まだ石積みだけであった。

金沢城跡 河北門復元の様子

もうできてるかなーと思っていた2009年の春も未だ築城中だった。

金沢城跡 河北門築城中

内部見学をできる貴重な機会にも巡り合えたが、復元が成ったら必ず再訪しようと決めていたのだ。

金沢城跡 木造復元河北門築城中

それから、6年の月日が流れやっと再訪が叶ったが、なんと河北門どころか影も形もなかった玉泉院丸や橋爪門まで竣工されていて、今回は本当にラッキーだった。

金沢城跡 河北門枡形から菱櫓

河北門の構造も基本的には橋爪門と同じだが、枡形が土塀の構造であったり、ニラミ櫓台の存在など、防衛面ではこちらに重点が置かれていたようだ。

金沢城跡 新丸と武者走り?

坂を登ってくるという点で、攻城側としてはけっこうしんどいだろうと想像できる。

金沢城跡 河北門一の門

来訪者は、このニラミ櫓台と、奥に見える菱櫓の美しさに見惚れたことだろう。

金沢城跡 河北門から菱櫓

大手筋の新丸から菱櫓を遠望する。
実質天守といっても恥ずかしくない威容を誇っている。

金沢城跡 新丸から菱櫓

多くの城郭に用いられた、流行りの意匠が大手門に使われる大きな石「鏡石」だろう。

金沢城跡 鏡石

尾坂門が、金沢城の大手門だったとされる一つの根拠として、この鏡石の存在が挙げられている。
それくらい、鏡石の大手使用は往時ポピュラーだったのだ。
金沢城石垣は、マニアックさだけでなく、しっかり定番どころも抑えているのがポイントだ。


三の丸北側が大手筋だが、東側は搦手筋である。
兼六園とつながり、石川門があることから一番有名な金沢城への入口であろう。

粗加工石積みには鮮明に刻印が残っている。

石川門石垣刻印

古文書にも「これはおかしい」と書かれている左右で積み方の違う石積み。
左が粗加工、右が切石積みという。打込接と切込接とは少し違うのだろうか。
説明板には、前回来た時に撮った写真には「打込接・切込接」となっていた。6年の間に改訂されたのだろう。そこに案内者の拘りを感じてならない。

石川門石垣

三御門で唯一現存する石川門だが、基本的には二の門が櫓門、一の門が高麗門であることは同じだ。
ただ前述のとおり石積みがここでは特徴的である。

石川門二の門(重文)

なにより現存であることの価値は限りなく大きい。
時を経てこの美しさ、時を経たからこその美しさがそこにはある。

石川櫓(重文)と石川門一の門(重文)

夜景は2009年のものだ。
今回はあちこち欲張ったため城のライトアップまで手が回らなかった(;´・ω・)

金沢城石川門夜景

石川門から下って、外堀公園の白鳥路という散策路の脇、少し目立たないところに前田利家公の像がある。

金沢城跡 前田利家公之像

有名な金の鯰尾の兜を被った勇猛な利家の像だが、時代に取り残されたようにずっと外の堀跡に佇んでいるのだろうか。。。

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