25 古代秋田の政庁!秋田城跡

秋田城は奈良~平安期の古代城柵である。
あきたじょう。あきたのき。とも読む。

柵というと、ちょっと差別的な感情を感じぬでもない。
蝦夷に対し、「柵で十分。城など不要である」そんな印象がある。

文献や古跡において、柵の初見は新潟である。
年代が進むにつれ北上していることから、蝦夷をやっつけて、その先端に「柵」を築き要害としたのであろう。

国指定史跡 秋田城跡

ただし、その内容は防衛としての「城」というよりは、政庁としての「城」の色が濃い。

ちなみに、この頃の日本海側は表日本といえる。
海の向こうには強国・中国がいるのだ。
海という天然の水堀を隔てているとはいえ、お隣さんである。

秋田城跡 築地塀(復元)

太平洋側なんてむしろど田舎で、広大な海がどこまでもどこまでも続くだけだった。
北前船が日本海沿岸を伝って文化や物資を国内外に広めたのもそのためで、太平洋側はリアス式海岸という天然の良港がありながらほとんど発展しなかった。

最近思うのは、ひょっとしたら太平洋側は定期的に押し寄せる巨大津波のために発展が阻害された側面もあるのかもしれない。

秋田城跡 外側の東大路

ともかく、秋田城は政庁としての顔が強く、水洗式のトイレが完備されていたり、海外からの饗応施設らしき遺構があったりと、さながら平安京のミニ版といった感じである。

時代の流れの中でその重要性は減少したらしく、築地塀などは単に木材を建て並べただけの塀になったようで、こうなると政庁どころか、本当に単なる柵程度の効能しか期待していなかったようだ。

秋田城跡 政庁への大路

敷石の無い土を固めた道路は12m幅の立派なものだったが、これもやがて9mに縮小されている。
石畳でなくても、雨でぬかるんだりしないよう何層にも敷きならした土を固めてあったので、コンクリートまでとはいはないが、それなりにしっかりした道路であったことがわかる。

秋田城跡 復元門

秋田城は多分、大和朝廷の国力の衰えに比例して衰退している。
大地震によって崩壊したりもしたし蝦夷の反乱によって乗っ取られたりもした。

それでも、11世紀までは存続していたようだが、大和朝廷の蝦夷討伐が捗ると、その重要性は反比例に減少し、やがて廃城となったようである。

秋田城跡 政庁跡の築地塀

なお、秋田城は衰退したが、秋田城介という国司の名称は存続し、やがて官職となり、織田信長が明智光秀を惟任日向守、羽柴秀吉を筑前守などと九州制圧の一策としたように、嫡男信忠に秋田城介を名乗らせている。

秋田城跡 復元政庁模型

盛者は必衰なのである。
ミニ平安京だったであろう秋田城は、今はグラウンドや公園となっていた城域の中で、多少居心地悪そうに居座っているようであった。


なお蛇足であるが、この間、嫁ちゃんは車で眠っている。
旅の始まりから聴いている海援隊は、すでに解散を迎え、平成の時代に入り再結成した。
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