11 田舎の要衝 大洲城

大洲城は、伊予の南北を貫く二つの街道、松山と大洲を結ぶ大洲街道と、大洲と宇和島を結ぶ宇和島街道の合流地で、西は土佐へ向かう峠道、東は良港・八幡浜と九州への玄関口・佐賀関へ細長く向かう佐田岬がある、交通の要衝であった。

Nは思うのだ。もし、松山に日本の首都があって、東京のような発展を遂げたならば、大洲はちょうど横浜のように栄えたのではないか。と。

日本というものが九州で発生したのであれば、ありえない話では無いような気もするが、もはや夢物語でもある。

築城は元徳3(1331)年で、豊前などに勢力を持っていた宇都宮氏が築いたのが最初である。
この城を近世城郭に仕立て上げたのが、 今治城などを手掛けた築城の名人・藤堂高虎や、賤ヶ岳七本槍の脇坂安治らである。

下台所から大洲城

石垣は算木積もない無骨一辺倒の野面積だ。

大洲城 野面積石垣

天守は平成16(2004)年に木造復元されている。
重要文化財指定の現存櫓も、本丸に二件、城外にも二件残されている。

大洲復元天守

暗り門跡という、辛気臭い名の遺構がある。
暗り門は天守へ至る城内最大の城門であった。
内部は真っ暗になっており、暗がりの中で混乱する敵兵を易々と討取れる構造だったようだ。

大洲城 暗がり門跡

復元天守の手前が、高欄櫓だ。
その名の通り、城内で唯一高欄が設けられていて、城内が一望できる。
貴重な現存建物として重要文化財指定を受けている。

本丸から大洲復元天守

同じく、右は台所櫓といい、城内で最大の櫓だ。
文字通り台所としての役割があったのだろう。煙り出しのための格子窓が設置されている。
こちらも重要文化財指定である。

大洲城本丸

大洲城天守は、地元住民の活動により明治維新期の破却を逃れた貴重な遺構であったが、吹き抜け構造や老朽化などで倒壊の恐れがあり、明治年間に解体されてしまった。

平成に入り、大洲市制50周年事業として当時の資料などからほぼ完全に、史実に忠実な木造復元を成し遂げた。

大洲城天守からの眺望

天守復元に当たっては、建築基準法も大きな障害となったが、2年間知恵を絞り折衝し、保存建築物として適用除外の認定を受け、往時そのままの天守が甦ることとなった。


天守からは肱川に寄り添って建つ苧綿櫓も見える。
こちらもまた、重要文化財となる。

大洲城天守から苧綿櫓

おわた櫓は江戸後期に大破したものを再建したもので、軍事というよりも装飾性が強く、川に向けて袴腰型の石落としや出窓が美しく配されている。内向きにはのっぺらぼうだったり、出窓のみだったりで、割と殺風景だった。

向こう側に、冨士山という、どこかで聞いた名の山がある。

大洲城 苧綿櫓

城下の狭い道をVOXYで一生懸命探し出したのは、三の丸南隅櫓。
建築は明和3(1766)年で、城内の現存最古の建築物である。
なかなか見つけられなかったが、これで大洲城の4つの現存重文櫓を制覇することができた。

大洲城 三の丸南隅櫓

大洲城の幾つかある別名の内に、比志城というものがある。
これは、「おひじ」という女性を人柱にし高石垣を完成させた際、そのおひじの最期の願いとして天然のお堀となっている川の名を肱川とし、おひじの住んでいた町も比地町、城の別名も比志城と呼ぶようになったという。

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