49 伊予松山城 ~春や昔のお城山~

春や昔 十五万石の 城下哉

正岡子規の俳句だ。

松山城は岡山の備中松山城など各所にあるので便宜上、伊予松山城とすることが多い。

別名金亀城(きんきじょう)、勝山城(かつやまじょう)。
金亀とは、山麓の内堀が深い淵になっていて、そこに金色の亀が住んでいたことから。
勝山とは、城山の元々の山名である。

築城は賤ヶ岳七本槍の加藤嘉明。
関ヶ原の役で東の徳川に付き戦功を挙げ10万石の加増を受け、20万石で入府した。

松山市から見上げれば、どこでも城山に天守が座っているのが見える。
現存天守を筆頭に、現存建造物が21棟もある。

津山城姫路城と並び、日本三大平山城に数えられている。

とかく、本丸の天守遺構にスポットが当てられがちだが、何の三之丸、二之丸から登城し本丸に至るまでの見所も多い。

地図を見てみると、松山城の城山の西南に、きっちりと四角く堀で区切られた場所があることが一目でわかる。

東堀
松山城 東堀

東御門跡は市役所や県庁の至近にあり、ここからも松山城天守がよく見える。

市役所 県庁前から松山城

東御門跡から堀の内側、すなわち堀之内に入れば、江戸期に行政機関が密集していた伊予松山15万石の国府である。

東御門櫓台石垣跡付近
国史跡 松山城跡

今は「城山公園(堀之内地区)整備計画」に基づき史跡景観を活かした都市公園を目指し、発掘や遺構の表示など整備が進められている。

広大な堀之内は市民の憩いの場となっている。 やすらぎ広場
松山城 やすらぎ広場

壮大な石垣の上、二之丸には二之丸史跡庭園が整備されており、背後に小天守が被っているが天守が見えている。

松山城 二之丸史跡庭園と天守

城山を登る道は現在4ヶ所あって、ロープウェイがある城山東側の東雲(しののめ)口登城道、西北の古町口登城道、三之丸付近から登る黒門口登城道、そしてこれから登る県庁裏登城道だ。

松山城 県庁裏登城道

県庁裏登城道には、登り石垣という全国でも珍しい石垣遺構がある。

兵庫淡路の洲本城や、滋賀近江の彦根城などにしか残っていない貴重な遺構で、豊臣秀吉軍が朝鮮での戦役の際用いた防備石垣として築かれたのが最初とされており、松山城の加藤嘉明、洲本城の脇坂安治も建築に携わっていた。

松山城 南登り石垣

松山城の登り石垣は現存遺構として最大規模で、特に県庁裏登城道から見ることができる南登り石垣は総延長230mにも及ぶ長大なものなのだ。

伊予松山城 登り石垣

登り石垣は二本あり、南の一本は二之丸から大手門へ、北の一本は二之丸から乾櫓まで、二之丸と本丸の間に出来た区域から敵の侵入を防ぐために作られた。

本来なら石垣の上部に渡塀や二重櫓が備えられていたが、明治期に破却されてしまった。

県庁裏登城道からおよそ20分程で長者ヶ平(ちょうじゃがなる)に到着し、東雲口登城道と合流する。

長者ヶ平(ちょうじゃがなる)

東雲口からはリフトとロープウェイが出ており、こちらは所要6分程で長者ヶ平へ行ける。

以下4枚2010.08.03撮影
松山城ロープウェイ

リフトやロープウェイからは天守も垣間見ることができ、楽ちんだ。

松山城ロープウェイから天守

長者ヶ平から木々に囲まれた道を少し歩くと、段々石垣が向こう側の光の中に見えてくる。

松山城 長者ヶ平から本丸へ

県庁裏登城道から来れば、すでに松山城の石垣の壮麗さに出会っているが、ロープウェイで木々に囲まれ登ってきたなら、天守に気を取られていた分、よけいにこの雄大な石垣への視覚効果は高いかもしれない。

松山城 長者ヶ平から隠門下石垣付近へ

扇勾配
と呼ばれる石垣の芸術は、美しい曲線を描きながらもどこか攻撃的である。
本丸南側の石垣は「打込接(うちこみはぎ)」という手法を用い、割石、切石を当て込んだ乱積みである。

写真左の真ん中少し下の場所が揚木戸門跡
松山城 揚木戸門跡付近石垣

この付近は揚木戸門という城門があった場所で、大手門と共に城郭防衛の重要な拠点であった。

揚木戸門跡の先、すぐに待合番所があり、今は木々の間から街の眺望が少しある小広場となっているが、往時は東雲口の揚木戸門と二之丸からの大手門から敵の侵入を防ぐ重要な防衛施設であったと考えられる。

松山城 待合番所跡

大手門は枡形になっており、ようやく突破したとしても石垣の上の続塀や櫓の狭間から弓鉄砲を撃ちかけられる仕組みになっており、更に左折しないと本丸へ続く道へは行けないのだが、どうしても正面の揚木戸門方向へ足が向きやすそうな仕掛けになっているようだ。

松山城 大手門跡と太鼓櫓

大手門の先、太鼓櫓がそびえているのが見え、背後には天守も見えることから、どうしても直進したくなるところだ。

ツツジがきれいに咲く太鼓櫓(復元)
松山城 太鼓櫓とツツジ

往時は太鼓櫓石垣の下に中ノ門と呼ばれる城門があり、一生懸命ここを攻略して直進しても屏風折と言われる横矢掛の石垣の上の櫓や塀から散々に矢玉を撃ちかけられた挙句、乾門の前で行き止まりとなっている。

つまり本丸石垣下のぐるりは、敵を惑わすための帯曲輪になっているようだ。


太鼓櫓でコの字に右折すると、天守に背を向けた格好になり、正面に戸無門がある。

重要文化財・戸無門 江戸初期頃創建とされる高麗門
松山城 戸無門(現存・重文)

戸無門はその名の通り、戸があった痕跡がなく、創建当初から戸無だったと考えられている。

戸無門をくぐると、城の南や南西側が大分開けていて眺望が良い。
ここには大手最強の防衛線である筒井門と隠門がある。

松山城 筒井門手前からの眺望

小天守・太鼓櫓・戸無門・筒井門が揃う画は壮観!

松山城 小天守・太鼓櫓・戸無門・筒井門

筒井門は復元だが、その右側にある隠門は現存で重文指定されている。
戸無門は筒井門東続櫓の石垣に上手い具合で隠れていて、知らずに筒井門に殺到した敵を急襲できる仕組みになっている。

重要文化財・隠門 慶長年間の建造とされ松山城では最も古い部類
松山城 隠門(現存・重文)
以下2枚2010.08.03撮影

筒井門の先は太鼓櫓と太鼓門西塀、太鼓門、そして巽櫓がある。

太鼓櫓と太鼓門西塀
松山城 筒井門から太鼓櫓

いずれも昭和20年の空襲で焼失してしまったが木造復元され現在に至っている。

この松山城の現在における一大特徴として、現存建造物21棟のほか、復元されているものもあるが、一貫して木造での復元を試みているという点があげられる。
昭和に出来た全国各地のそれは、観光的配慮のためか、建築技術または予算のためか、その多くが鉄筋構造であり、復元とも言えない新興のものである場合がほとんどであった。

松山城復興に携わる人々の、文化財や歴史に対する想いの大きさを感じつつこの城を巡るのも一つの楽しみといえよう。

太鼓櫓手前からの眺望
松山城 太鼓櫓手前からの眺望

巽櫓は長者ヶ平から揚木戸門への帯曲輪からも見られる。

巽櫓(復元) 石垣下から
松山城 巽櫓(復元)
2010.08.03撮影

樹木に覆われた太鼓門の先、いよいよ本丸へと到達する!

松山城 太鼓門(復元)

本丸は南北に細長く、広さもある。
ここから天守方面へ続く石垣を眺めると、松山城石垣の真骨頂と言える屏風折が見て取れる。

ごめん屏風折れわかりにくいわ。展望は左から乾櫓・南隅櫓・小天守・大天守・馬具櫓
松山城 乾櫓・南隅櫓・小天守・大天守・馬具櫓

はるか瀬戸内も見晴るかせ、山上の風が爽やかであった。

太鼓門は本丸の南端に位置し、天守のある本壇は北端に位置するため、ここから更に少し歩く。
天守はむろん目に見えて近づいて来る。


写真撮影の出来る場所があり、ここで何とJK(女学生)が記念写真を撮ってくれるボランティアがGWの時期に催されていた。

松山城 大天守と鯉のぼり

親切なJKと少しお話もでき、気分を良くした三十路までカウントダウンに入っているオジサンたちは本壇へのチケットを購入し、意気揚々と本壇を目指した。

「よしあきくん」も出迎えてくれたが上記の状況のため写真は失念
松山城 小天守・大天守
2010.08.03撮影

JKの可愛さと天守群の美しさに気を取られるのはやむなしだが、眼下の白い塀にも注目したい。

左から南隅櫓・小天守・大天守
松山城 南隅櫓・小天守・大天守

紫竹門東塀といい、江戸初期に建造されたようだが、落雷で天守と共に焼失し、嘉永年間というから江戸後期に再建され、現在は重要文化財指定となっている。

天守への道のりは4段5段構えの枡形になっており、真上は天守なのに先は長い。

大天守・一ノ門南櫓
松山城 大天守・一ノ門南櫓

重要文化財の一ノ門の先、これまた重要文化財の二ノ門をくぐる。

三ノ門南櫓・二ノ門
松山城 三ノ門南櫓・二ノ門(重文)

狭間の向こう側は・・・?
なんでしょう( *´艸`)?

松山城 狭間
2010.08.03撮影

二ノ門の先には天神櫓がある。
こちらは戦災焼失の復元だが、菅原道真を祀り城の鬼門を防衛している。

松山城 天神櫓(復元)

天守の前を通り、もちろん重要文化財の三ノ門へ。
このあたりは前述の落雷によってほとんど焼失後再建されている。

松山城 三ノ門(重文)・大天守

三ノ門内側の筋金門東塀(重文)の狭間からは、一ノ門(写真左)が見える。

松山城 筋金門東塀から一ノ門

ぐるぐる天守の周りを歩かすもんだから、今一体自分がどこにいるのか、ワケわからなくなる。

三ノ門南櫓は一ノ門、二ノ門とは隣接しているが、三ノ門とは距離がある。
でも筋金門東塀と同じ、三ノ門の内側に入口があり、太鼓があり、子供がいたw

松山城 三ノ門南櫓内部(重文)

三ノ門の先、筋金門(復元)をくぐると、ようやく天守広場と言われる本壇天守の入口に至れる。

松山城 筋金門(復元)
2010.08.03撮影

天守広場は大天守をはじめ、小天守、南隅櫓など櫓群に囲まれている。
玄関、なんていうのもあるが、天守へは天守下の石垣から入る。

石垣がここでは切込接なのも注目だ。

松山城 玄関・内門・大天守

天守(または大天守)は、連立式層塔型三重三階地下一階となっており、石垣部分の地下は穀倉となっており、二千俵もの米を蓄えることができた。
2.5俵を一石とすると、800石の備蓄が出来たことになる。

安政元(1854)年の再建で、全国の現存12天守のなかで一番新しい。
安政の大獄など、政情が緊迫してくる時代によく再建できたと思う。

穀倉から天守一階へ上がると、順路は内門、玄関多聞櫓、北隅櫓へと進む。
この辺りは全て復元となる。

松山城 大天守
2010.08.03撮影

北隅櫓二階。
暗いが、隙間からの光で内部を見ることができる。

松山城 北隅櫓二階

北隅櫓から乾門東続櫓・乾門・乾櫓・野原櫓を眺める。
乾櫓と野原櫓は現存重文だ。

松山城 北隅櫓から乾門東続櫓・乾門・乾櫓・野原櫓

南隅櫓や多聞櫓からは内門・大天守・筋金門など、天守広場を覗くことができる。

松山城 多聞櫓から内門・大天守・筋金門

多聞櫓から段数の少ない階段を上ると、小天守である。

松山城 小天守内

小天守も残念ながら復元だが、城郭建築特有の急階段を上ると、祭祀で使用された弓矢が置いてあり、広々としていて景色も素晴らしかった。

松山城 上棟式用弓矢

二之丸、三之丸方面にフォーカス。

松山城 小天守から二之丸・堀之内

くねくねさせられた一、二、三ノ門の構造も上から見たら、よくわかる。

松山城 小天守から三ノ門南櫓など

小天守から、そのまま大天守へと行ける。
天守一階では、甲冑装着体験の出来る。

天守としては珍しい床の間が。

松山城 床の間

天守三階に上がる。もちろん急階段。
広々として、子供が喜んでいた。

松山城 大天守三階

天守からは松山一望で、瀬戸内から松山の街並み、道後温泉などなど、素晴らしい眺めだった。

松山城 大天守から松山

道後温泉本館もよく見れば少し見えるし、宿泊の道後館もこの通り♪

松山城 大天守から道後館

爽やかな天守閣の風をしばし楽しんだ後、思いを残しながらも天守を降りる。

復元の内門から、天守広場の外に出る。
仕切門内塀も重要文化財だ。

松山城 仕切門内塀(重文)

仕切門の意匠もなかなか。
え?これはって?当然重文です。

松山城 仕切門(重文)

天守のある本壇から出て、今度は本丸北部を目指す。

以下7枚2010.08.03撮影
松山城 乾門方面

本壇入口の西側に位置する紫竹門および紫竹門西塀は、現存の重要文化財だ。

松山城 紫竹門(重文)

本壇の真西には、乾櫓、乾門があり、そこから古町口登城道を下ることができる。

松山城 乾櫓(重文)・乾門(復元)

古町口も古城情緒が素晴らしそうだ。

松山城 古町口方面

乾櫓は重文だが、乾門は復元となる。
松山城の搦手だ。

松山城 乾門

この辺りでは北隅櫓、十間廊下、南隅櫓を一覧できる。
松山城の建造物は、現存は黒っぽく、復元は板の素地の茶の色をしている。

松山城 北隅櫓・南隅櫓

騎馬櫓という荒々しい異名をもつ、野原櫓というのどかな櫓は、本壇北西に位置する。

松山城 野原櫓(重文)

慶長年間創建とされる、戦国時代の息遣いが聞こえてきそうな、櫓としては珍しい望楼型の二階櫓である。


NHKのスペシャル大河で放映された「坂の上の雲」で、秋山真之、秋山好古、正岡子規が写真を撮っていたのは、この艮門であったようだ。

松山城 艮門東続櫓(復元)・艮門(復元)

艮門は搦手である乾門や長者ヶ平の揚木戸門へ敵が侵入してきたときに腹背を突く役割を持っていた。

以下3枚2010.08.03撮影
松山城 艮門

本壇の周囲を一周し、天守を振り返り、ふりかえり本丸の南側へ戻る。
東側にはお土産処と、井戸がある。

井戸は、もともと二つの峰を埋め立てて本丸としたときに、その場所にあった泉を利用し井戸としたものだ。

松山城 井戸(復元)

お土産処で愛媛みかんカキ氷を食す。なんと600円もした汗
その甲斐あって美味しく、相当歩いた城めぐりの疲労も少し癒えた。

松山城 愛媛みかんカキ氷

帰りは黒門口登城道を使用。
大手筋だ。

松山城 大手門跡 黒門口登城道

大手とはいえ、時の流れをしのぶには充分過ぎるほどに趣がある。

松山城 黒門口登城道

二之丸史跡庭園はいずれ再訪の秋には入館せねばなるまい。
今回は覗くだけだった。

松山城 黒門口登城道から二之丸史跡庭園

槻門跡付近の石垣は見事なもので、城めぐりのラストに見事な花を添えるものだった。

松山城 槻門跡

松山城は、たかだか15万石程度の城下から、明治期のその一刻のみ、秋山真之、秋山好古、正岡子規という人物を輩出した。

この城には、確かにそういった雰囲気があった。
いかにも、人が出そうな城。そんな印象だった。

瀬戸内の風をうけて、今日もきっと人を育てているのだろう。
15万石どころか、100万石の価値のある城であった。

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