3 西大寺 ~瀬戸内浦賀人旅~
6:00!!
一行は岡山は備前国・日本三大奇祭の会陽が行われる
「西大寺」
に到着した。
西大寺は「さいだいじ」と読む。

境内にある無料の駐車場に車を停め、まずは近くの吉井川の朝景をのぞみ、観音様の裏手の川に掛かる会陽橋と船の景観を眺めた。
しかし寒い(^_^;)・・・

思わず笑ったが、奇祭・会陽を観るための観覧席も境内にある。
指定席券購入は、なんと5000円 ( ̄▽ ̄;)マジカ

普陀南海観音は、中国にある仏教の聖地・普陀山との交流10周年を記念し、普陀山から本場の33mの観音様の1/10の大きさで贈呈されたものである。
普陀山を開いたのは何と日本の僧侶・恵鍔(えがく)であるという。
仏道を極めるため中国に渡ったのであろう。
恵鍔は布教のため日本へ帰る途次、小島に遭難した。
恵鍔は観音像をその地に祀り、それが基で寺院200、僧侶3000人が居住する中国四大聖地へ発展したという。

神社には、金毘羅大権現(不動明王と毘沙門天の二尊)と牛玉所(ごうしょ)大権現が祀られている。
明治以前の日本は、長く日本古来の神々と仏教の神々は同一のものであると考えられてきた。
日本は飛鳥の昔に日本古来の神々に加え、仏教を取入れた。
もともと、怨霊鎮魂などの日本古来の信仰の、ひとつの方法論として取り入れられた仏教であるが、次第に「日本化」した。

「神仏混淆(しんぶつこんこう)」といって、奈良時代頃には日本の神と仏教の神は元々は同一のものであると考えられるようになったのだ。
だから寺院の中に神社があったり、神社の中にお寺があったりする。
鎌倉時代には、そういった信仰が形態付けられ
「仏教の神々は、古代の日本人に馴染みやすいように」
神話の神々の姿で現れた。とした。
これを
本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)
という。
考えてみれば随分と横着な説なのだが、これが見事に日本人の感性にピッタリ嵌って定着する。
もともと「和」の民族である日本人には、そもそも神々が対立するような考えにはならなかったのだろう。
一部には神仏を区別するような思想も現れたが、それらはいつの間にか消えてしまう。
まぁ・・・「仏教」という意味では、「日本に仏教は定着しなかった」
とも言えるかもしれない。真の仏教は日本の神々と混淆はしないだろう。
旅を続けて少しわかったことだが、仏教も、漢字などの外来文化も、あるいはキリスト教ですら、日本の古代からの民俗信仰に取り込まれていって、長い歳月の中で噛み砕かれて、「日本っぽく」作り替えられていく。
鐘楼門の梵鐘(朝鮮鐘)は、国の重要文化財に指定されている。
もともと石門にあったものだが、明治期に鐘楼門に移った。

寺域はさして広くはないが、コンパクトにまとまっており、広々とした印象も受けた。
古式な三重塔に味がある。

西大寺の正式な名は
「金陵山西大寺」
といい、高野山真言宗の別格本山で、本尊は千手観音である。
寺伝では、宝亀8(777)年、安隆上人が寺を建てようと瀬戸内海を進んだとき、海中から龍神が現れ、上人に犀の角を授けた。
上人はそれを埋め、そこに寺を建立し「犀戴寺」と名付けたのが西大寺の由来らしい。
仁王門

裸祭りである奇祭・会陽は、
「西大寺の町は会陽一日で一年分稼ぐ」
と謳われるほどの賑わいだったという。
石門。正式には龍鐘楼という

垢離取場(こりとりば)は、旧年の垢(厄)を落とす場であり、仁王門から殺到した裸の男たちは、まずここでコリトリを行うのだ。

会陽では、宝木を待ち受ける男たちで本堂前はごった返す。
その参加者数は9000人にも及ぶ。
そのどよめきは、瀬戸内の向こう側、四国にまで聞こえたとも伝わる。

会陽には、女性も参加するが、もちろん裸ではないだろう。
白衣を纏った女性たちは、垢離取場で冷水に浸り大願成就を祈る。
また、祭の開始を告げる会陽太鼓は全員女性で、男たちの心に燃える炎を力強く鼓舞する!
「あ~寒い!!車、くるま(;´д`)」
会陽は、毎年2月の第3土曜日に催される。
一番寒さの厳しい時期だヽ〔゚Д゚〕丿スゴ!!
一行は、もうすぐ5月の声を聞く頃の寒の戻りに身震いしながら、熱い寒い裸祭り・会陽の盛り上がりを想像しつつ、早朝の静寂の西大寺を後にするのであった。

一行は岡山は備前国・日本三大奇祭の会陽が行われる
「西大寺」
に到着した。
西大寺は「さいだいじ」と読む。

境内にある無料の駐車場に車を停め、まずは近くの吉井川の朝景をのぞみ、観音様の裏手の川に掛かる会陽橋と船の景観を眺めた。
しかし寒い(^_^;)・・・

思わず笑ったが、奇祭・会陽を観るための観覧席も境内にある。
指定席券購入は、なんと5000円 ( ̄▽ ̄;)マジカ

普陀南海観音は、中国にある仏教の聖地・普陀山との交流10周年を記念し、普陀山から本場の33mの観音様の1/10の大きさで贈呈されたものである。
普陀山を開いたのは何と日本の僧侶・恵鍔(えがく)であるという。
仏道を極めるため中国に渡ったのであろう。
恵鍔は布教のため日本へ帰る途次、小島に遭難した。
恵鍔は観音像をその地に祀り、それが基で寺院200、僧侶3000人が居住する中国四大聖地へ発展したという。

神社には、金毘羅大権現(不動明王と毘沙門天の二尊)と牛玉所(ごうしょ)大権現が祀られている。
明治以前の日本は、長く日本古来の神々と仏教の神々は同一のものであると考えられてきた。
日本は飛鳥の昔に日本古来の神々に加え、仏教を取入れた。
もともと、怨霊鎮魂などの日本古来の信仰の、ひとつの方法論として取り入れられた仏教であるが、次第に「日本化」した。

「神仏混淆(しんぶつこんこう)」といって、奈良時代頃には日本の神と仏教の神は元々は同一のものであると考えられるようになったのだ。
だから寺院の中に神社があったり、神社の中にお寺があったりする。
鎌倉時代には、そういった信仰が形態付けられ
「仏教の神々は、古代の日本人に馴染みやすいように」
神話の神々の姿で現れた。とした。
これを
本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)
という。
考えてみれば随分と横着な説なのだが、これが見事に日本人の感性にピッタリ嵌って定着する。
もともと「和」の民族である日本人には、そもそも神々が対立するような考えにはならなかったのだろう。
一部には神仏を区別するような思想も現れたが、それらはいつの間にか消えてしまう。
まぁ・・・「仏教」という意味では、「日本に仏教は定着しなかった」
とも言えるかもしれない。真の仏教は日本の神々と混淆はしないだろう。
旅を続けて少しわかったことだが、仏教も、漢字などの外来文化も、あるいはキリスト教ですら、日本の古代からの民俗信仰に取り込まれていって、長い歳月の中で噛み砕かれて、「日本っぽく」作り替えられていく。
鐘楼門の梵鐘(朝鮮鐘)は、国の重要文化財に指定されている。
もともと石門にあったものだが、明治期に鐘楼門に移った。

寺域はさして広くはないが、コンパクトにまとまっており、広々とした印象も受けた。
古式な三重塔に味がある。

西大寺の正式な名は
「金陵山西大寺」
といい、高野山真言宗の別格本山で、本尊は千手観音である。
寺伝では、宝亀8(777)年、安隆上人が寺を建てようと瀬戸内海を進んだとき、海中から龍神が現れ、上人に犀の角を授けた。
上人はそれを埋め、そこに寺を建立し「犀戴寺」と名付けたのが西大寺の由来らしい。
仁王門

裸祭りである奇祭・会陽は、
「西大寺の町は会陽一日で一年分稼ぐ」
と謳われるほどの賑わいだったという。
石門。正式には龍鐘楼という

垢離取場(こりとりば)は、旧年の垢(厄)を落とす場であり、仁王門から殺到した裸の男たちは、まずここでコリトリを行うのだ。

会陽では、宝木を待ち受ける男たちで本堂前はごった返す。
その参加者数は9000人にも及ぶ。
そのどよめきは、瀬戸内の向こう側、四国にまで聞こえたとも伝わる。

会陽には、女性も参加するが、もちろん裸ではないだろう。
白衣を纏った女性たちは、垢離取場で冷水に浸り大願成就を祈る。
また、祭の開始を告げる会陽太鼓は全員女性で、男たちの心に燃える炎を力強く鼓舞する!
「あ~寒い!!車、くるま(;´д`)」
会陽は、毎年2月の第3土曜日に催される。
一番寒さの厳しい時期だヽ〔゚Д゚〕丿スゴ!!
一行は、もうすぐ5月の声を聞く頃の寒の戻りに身震いしながら、熱い寒い裸祭り・会陽の盛り上がりを想像しつつ、早朝の静寂の西大寺を後にするのであった。



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