19 鬼ノ城 ~古代ロマンと伝説の城~
鬼ノ城は、天智天皇の時代(663年)に築城された。
天智天皇は朝鮮半島の動乱に乗じた唐が朝鮮半島を統一し、日本にまでその食指を延ばしてくることを恐れた。
そこで天智天皇は、古代史上では最大の朝鮮半島への軍事介入を決意し、百済に援軍を送ったが、白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗してしまう。
唐・新羅に本土まで攻め入られる事を天智天皇は恐れ、西日本のあちこちに百済系の移民に教わったと思われる朝鮮式山城を築城した。
今の福岡には大野城、対馬には金田城、筑紫平野の狭まったところには太宰府の防衛ラインとして丘と見間違えるほど壮大な水城(みずき)といわれる全長1.2km、幅80m、高さ14mの大堤(土塁)を造った。
天智天皇の後半生は唐・新羅連合軍への恐れとの戦いであったと言っても過言ではなく、首都を飛鳥(奈良県)から大津(滋賀県)へ遷したほどである。
鬼ノ城へは、岡山総社ICからそう遠くない。
VOXYで狭い山道を登っていくと、ビジターセンターや広めの駐車場が完備されていた。
駐車場から少し歩くと、ちょっと先に西門が見えてきた。
左側には角楼も見える。

角楼は日本の古代山城では初めて確認された施設。
この場所が尾根続きで攻められやすいため、後世で言う出丸のように一角を長方形に張り出させ、城の死角を補った。

西門は、古代山城の城門では日本で初めて復元された施設だ。

不思議な意匠ではあるが、往時もこのようなものであったのだろうか。

西門は三階建ての、なかなか大きな迫力のある城門である。
400m程もある鬼城山に、このような城があったなんて驚きである。
なんといっても、日本書紀が編纂されるよりも以前の遺跡なのだ!

城からの視界は広い。
総社平野が見渡せる。
なにより真夏の暑い空気と、空のだだっ広さがいつまでも印象に残る。

敷石は、本場の朝鮮半島でも数例しか確認されていない大変珍しいもので、鬼ノ城が最先端の技術を投入して築城されたことを如実に示している。
用途は、通路としての役割と、雨水などが城壁を壊すのを防ぐためのものであったとされる。

見渡す景色は、例えば秀吉の水攻めで有名な備中高松城のあたりや、総社平野、遠くは児島半島から、更に四国山脈まで見渡すことができる。

朝鮮式山城・・・古代山城とも言うが、鬼ノ城の優れたところは、すでに石垣や排水の技術が取り入れられている点であろう。
鬼城山は比較的水にも恵まれているらしく、山の中心地には湿地のようになっている場所もあった。
水門は、そうした水が城を侵食するのを防ぐために作られたのだろう。
下部は石積みだが、上部は木枠を組んで土で突き固めてある。これを版築土塁という。

城壁は山の8~9合目に長さ2.8kmにも及ぶ。
主に土塁の城壁が主体で、城門は東西南北4ヶ所、水門6ヶ所、角楼1ヶ所、高石垣もある。
南門跡は、西門とほぼ同じ構造であったと考えられている。
南門跡

石仏などもある。

千手観音かな?
中世以降だろうか、山岳仏教の地になっていたようだ。
平安時代には鬼城山一帯に大規模な伽藍も多数建っていたという。

石肌が見えている場所もある。石垣や敷石の素材は現地調達だったのだろうか。

屏風折れの石垣は驚きだった。
関東では、戦国時代に至っても、最大規模の大名であった後北条氏ですら土塁を基本とした城郭であったにも関わらず、西国では古代史の時点で石の加工技術があったのである。

石垣の城郭が西国中心で発達したのも、あるいは古代の朝鮮式山城というお手本があったからこそなのかもしれない。

屏風折れの石垣の上部の、突出部。
礎石のようなものがあった。ここにも物見櫓のようなものがあったのかもしれない。

基本謎だらけの城である。
吉備といば、このあたりは桃太郎伝説で有名で、何を隠そうこの鬼ノ城こそ、鬼が住んでいた砦であったという伝説が残っている。
巡っていてなんとなく感じたのだが、この城は唐・新羅連合軍だけでなく、内向き、つまり国内にもその防衛体制が向いているような気がしたのだ。
古代、このあたりに住んでいた勢力が元々砦を形成しており、敵対勢力は大和朝廷だった。
その勢力は大和朝廷に敗北、その後天智天皇により現在鬼ノ城と呼ばれる古代朝鮮式山城にレベルアップした。
敗北した勢力こそ温羅(うら)と呼ばれる朝鮮からの渡来人であり、これが「鬼」として崇神天皇の時代に「退治」された。
そうは考えられないだろうか?
温羅は製鉄技術を持っていたというから、やはり相当な力を持っていたのだろう。
古代史はロマンに満ち溢れている。
朝鮮から落ちてきた勢力が次第に原住民であった縄文文化を持つ人々を東へ追いやって成立した統一政権が大和朝廷つまり現在の皇室で、彼らは中華の皇帝に対抗し、天皇を名乗った。
追いやられた縄文人は関東以北で細々と生き残っていた。
これが後に武士となる。
そんなシナリオがあっても不思議じゃないな。
考えれば考えるほど面白い!
いずれ答えを見つけたいものだ。

城域は30haもあり、倉庫、兵舎、狼煙場などの痕跡が見つかっている。
湿地のような場所もあったから、ひょっとしたら古代も水に恵まれていたのかもしれない。

礎石総柱建物跡。
城内の中央には7棟もの礎石建物群が発見されている。

国指定史跡 鬼城山は謎だらけの史跡である。
古代の歴史に思いを馳せ、日本の原点を感じる事のできる素晴らしい城であった。
古代の日本人は、ともかく大敵に恐れおののき山の頂に城を築いた。
その城は、なんと現代に至ってもなおその威容を垣間見ることができる規模のものであった。
いつしか彼らは山上の城を放棄し、山岳信仰に取り込まれ、歴史の彼方に忘れ去られていった。
いつしか彼らは忘れたことさえも忘れ果て、文明と文化の繁栄に邁進していった。
そして我らは思い出すのだ。
彼らが忘れたこの歴史を、我らが蘇らせるのだ。
少ないヒントをもとに、我らが歴史を紡ぐ。
伝説は、今でも生き生きと生きているのだから。

天智天皇は朝鮮半島の動乱に乗じた唐が朝鮮半島を統一し、日本にまでその食指を延ばしてくることを恐れた。
そこで天智天皇は、古代史上では最大の朝鮮半島への軍事介入を決意し、百済に援軍を送ったが、白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗してしまう。
唐・新羅に本土まで攻め入られる事を天智天皇は恐れ、西日本のあちこちに百済系の移民に教わったと思われる朝鮮式山城を築城した。
今の福岡には大野城、対馬には金田城、筑紫平野の狭まったところには太宰府の防衛ラインとして丘と見間違えるほど壮大な水城(みずき)といわれる全長1.2km、幅80m、高さ14mの大堤(土塁)を造った。
天智天皇の後半生は唐・新羅連合軍への恐れとの戦いであったと言っても過言ではなく、首都を飛鳥(奈良県)から大津(滋賀県)へ遷したほどである。
鬼ノ城へは、岡山総社ICからそう遠くない。
VOXYで狭い山道を登っていくと、ビジターセンターや広めの駐車場が完備されていた。
駐車場から少し歩くと、ちょっと先に西門が見えてきた。
左側には角楼も見える。

角楼は日本の古代山城では初めて確認された施設。
この場所が尾根続きで攻められやすいため、後世で言う出丸のように一角を長方形に張り出させ、城の死角を補った。

西門は、古代山城の城門では日本で初めて復元された施設だ。

不思議な意匠ではあるが、往時もこのようなものであったのだろうか。

西門は三階建ての、なかなか大きな迫力のある城門である。
400m程もある鬼城山に、このような城があったなんて驚きである。
なんといっても、日本書紀が編纂されるよりも以前の遺跡なのだ!

城からの視界は広い。
総社平野が見渡せる。
なにより真夏の暑い空気と、空のだだっ広さがいつまでも印象に残る。

敷石は、本場の朝鮮半島でも数例しか確認されていない大変珍しいもので、鬼ノ城が最先端の技術を投入して築城されたことを如実に示している。
用途は、通路としての役割と、雨水などが城壁を壊すのを防ぐためのものであったとされる。

見渡す景色は、例えば秀吉の水攻めで有名な備中高松城のあたりや、総社平野、遠くは児島半島から、更に四国山脈まで見渡すことができる。

朝鮮式山城・・・古代山城とも言うが、鬼ノ城の優れたところは、すでに石垣や排水の技術が取り入れられている点であろう。
鬼城山は比較的水にも恵まれているらしく、山の中心地には湿地のようになっている場所もあった。
水門は、そうした水が城を侵食するのを防ぐために作られたのだろう。
下部は石積みだが、上部は木枠を組んで土で突き固めてある。これを版築土塁という。

城壁は山の8~9合目に長さ2.8kmにも及ぶ。
主に土塁の城壁が主体で、城門は東西南北4ヶ所、水門6ヶ所、角楼1ヶ所、高石垣もある。
南門跡は、西門とほぼ同じ構造であったと考えられている。
南門跡

石仏などもある。

千手観音かな?
中世以降だろうか、山岳仏教の地になっていたようだ。
平安時代には鬼城山一帯に大規模な伽藍も多数建っていたという。

石肌が見えている場所もある。石垣や敷石の素材は現地調達だったのだろうか。

屏風折れの石垣は驚きだった。
関東では、戦国時代に至っても、最大規模の大名であった後北条氏ですら土塁を基本とした城郭であったにも関わらず、西国では古代史の時点で石の加工技術があったのである。

石垣の城郭が西国中心で発達したのも、あるいは古代の朝鮮式山城というお手本があったからこそなのかもしれない。

屏風折れの石垣の上部の、突出部。
礎石のようなものがあった。ここにも物見櫓のようなものがあったのかもしれない。

基本謎だらけの城である。
吉備といば、このあたりは桃太郎伝説で有名で、何を隠そうこの鬼ノ城こそ、鬼が住んでいた砦であったという伝説が残っている。
巡っていてなんとなく感じたのだが、この城は唐・新羅連合軍だけでなく、内向き、つまり国内にもその防衛体制が向いているような気がしたのだ。
古代、このあたりに住んでいた勢力が元々砦を形成しており、敵対勢力は大和朝廷だった。
その勢力は大和朝廷に敗北、その後天智天皇により現在鬼ノ城と呼ばれる古代朝鮮式山城にレベルアップした。
敗北した勢力こそ温羅(うら)と呼ばれる朝鮮からの渡来人であり、これが「鬼」として崇神天皇の時代に「退治」された。
そうは考えられないだろうか?
温羅は製鉄技術を持っていたというから、やはり相当な力を持っていたのだろう。
古代史はロマンに満ち溢れている。
朝鮮から落ちてきた勢力が次第に原住民であった縄文文化を持つ人々を東へ追いやって成立した統一政権が大和朝廷つまり現在の皇室で、彼らは中華の皇帝に対抗し、天皇を名乗った。
追いやられた縄文人は関東以北で細々と生き残っていた。
これが後に武士となる。
そんなシナリオがあっても不思議じゃないな。
考えれば考えるほど面白い!
いずれ答えを見つけたいものだ。

城域は30haもあり、倉庫、兵舎、狼煙場などの痕跡が見つかっている。
湿地のような場所もあったから、ひょっとしたら古代も水に恵まれていたのかもしれない。

礎石総柱建物跡。
城内の中央には7棟もの礎石建物群が発見されている。

国指定史跡 鬼城山は謎だらけの史跡である。
古代の歴史に思いを馳せ、日本の原点を感じる事のできる素晴らしい城であった。
古代の日本人は、ともかく大敵に恐れおののき山の頂に城を築いた。
その城は、なんと現代に至ってもなおその威容を垣間見ることができる規模のものであった。
いつしか彼らは山上の城を放棄し、山岳信仰に取り込まれ、歴史の彼方に忘れ去られていった。
いつしか彼らは忘れたことさえも忘れ果て、文明と文化の繁栄に邁進していった。
そして我らは思い出すのだ。
彼らが忘れたこの歴史を、我らが蘇らせるのだ。
少ないヒントをもとに、我らが歴史を紡ぐ。
伝説は、今でも生き生きと生きているのだから。



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