21 岩崎弥太郎生家 / 土居廓中 夏風景

風景の良いところだった。
南国は土佐の安芸。ダイナミックな雲と繊細な水田の風景。
冬でも温暖な安芸平野の気候は(今では随分衰退したそうだが)米の二期作を可能にした。

岩崎弥太郎生誕地 風景

この時、2010年8月5日(木)12:15。
龍馬伝真っ只中で、香川照之演じる岩崎弥太郎のコ汚さが話題になった。
弥太郎が創立した三菱からブーイングが出たというほどだから、まぁ、確かに相当汚かったけど個人的にはイメージに近かったし、そこから這い上がった男の凄みを感じた。

岩崎弥太郎生誕地 幟

そして岩崎弥太郎Tシャツを購入し、2015年まで気に入って着用し続けたものだ。

修復保存されている弥太郎生家の鬼瓦には、家紋である三階菱の門がつけられている。
おもちが上に向かって三つ重なったようなやつだ。

岩崎弥太郎生誕之地碑

三菱という巨大な会社のスリーダイヤというあまりに印象的なエンブレムは、その三階菱と、土佐藩主山内氏の家紋である三ツ柏を組み合わせて作られたという。
ダイヤは菱、配置は三ツ柏だ。

ケータイ国盗り合戦(*´з`)

岩崎弥太郎生家ぜよ ケータイ国盗り合戦

弥太郎生家から少し歩く。
当時の風情を残す武家屋敷群は、土居廓中(どいかちゅう)といって、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。

土居廓中

土佐藩家老で、安芸を治めた五藤家の与力・騎馬として仕えた野村家が残る。

土居廓中 一般公開家屋 武家屋敷(野村家)

間取りはほぼそのままで、当時の武家家屋の様子が窺える。
風通しが良い。

土居廓中 野村家

土居廓中や岩崎弥太郎生家の周辺は水田が広がっており、先述の通り二期作で稲作を営んでいた。

安芸の稲穂

実った稲穂と新穂のコントラストが美しい。

安芸の水田

雲は巨大に山間部を覆っていたが、雲間からは青い空が見え、背後はむしろ晴れ間が広がって、ひまわり畑は一斉に雲のない方面を眺めていた。

安芸のひまわり畑

ひまわりにはミツバチ。

安芸のひまわり

安芸市のシンボルである野良時計。
明治中頃、地主の旧家・畠中源馬が一から手造りで作り上げたという。

土居廓中 野良時計

現在も個人の住宅で、内部公開はしていない。外から、その誇らしげな雄姿を拝むばかりである。



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29 本間家旧本邸


道すがら。
余目。あまるめという珍しい地名のJAたがわには、「余目温泉 梵天」跡がある。典型的な天守閣風建築物というやつだ。梵天は2006年にはすでに廃業しており、2014年には「庄内町ギャラリー温泉 町湯」がお隣に開業している。

余目温泉梵天跡

山形の酒田で一番有名なのは、山居倉庫だろう。←のリンクは2015年のGWのものだが、後段で2012年の山居倉庫にも触れるだろう。

ここのテーマは、本間家だ。
Nが通う会社にかつて本間さんという名工が居て、新潟出身だった。関係あるかは知らないが、酒田の本間氏は、全国に名が通った大地主であった。
本間氏は大きく分けて佐渡を支配した佐渡本間氏と、ここ酒田本間氏と、大友氏の支族である大分の豊後本間氏がある。
酒田本間氏の規模は凄まじく、
「本間様には及びもせぬが せめてなりたや殿様に」
という歌が流行ったほどの栄華を誇り、戦後GHQによる農地解体まで、日本最大の地主と称されていた豪商中の豪商である。


三代目光丘が、庄内藩主に幕府の巡見使の宿舎として明和5(1768)年に建築、献上した。

薬医門から入っていくことはできないが、白壁と黒板張、武家屋敷らしい風格が漂っている。往時は日常使用されていたという。

本間家旧本邸 薬医門

今、入っていけるのは、本邸とともに山形県指定有形文化財に指定されている長屋門だ。
長屋門は旗本2000石の格式を誇るれっきとした現存建造物。

本間家旧本邸 長屋門

本間家旧本邸は藩主へ献上した後、本間氏が拝領し、本邸として使用した。そのため奥は商家造りとなっている。表は武家、奥は商家、こういった構造は極めて珍しい。

玄関先の松は伏龍の松と呼ばれ、また門かぶりの松とも呼ばれている。

伏龍の松(門かぶりの松)

邸内は清潔に保たれている。

本間家旧本邸 邸内

株式のチャートを見たとき、棒グラフの上や下に線が延びている。いわゆるローソク足と呼ばれるものがある。今は世界中のヘッジファンドや個人投資家が取引の重要な目安として使用しているのだが、実は本間宗久という人が考案したとされている。もちろん、酒田本間氏の人だ。

ちょっと大きく言うと、世界の株や先物取引の先駆け的存在と言っても良いかもしれない。というか、それほど江戸時代の経済は爛熟していたのである。

本間家旧本邸 軒先

向かいにはお店。
おみせ、ではない。おたな。と読む。

本間家旧本邸 別館

ただの金持ちではない。
庄内米の稲作の技術向上や名声アップ、防砂林の植樹による飛砂の防止、小作人の保護など公共的役割も果たした。庄内藩主酒井氏や、米沢藩上杉氏にも融資をした。

ビル・ゲイツも裸足で逃げ出すような一族だったのである!



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20 長宗我部の魂・岡豊城跡

高知城から岡豊城へは、車で40分ばかりの道のりである。
国指定史跡・岡豊城跡、「岡豊」は、うちのパソコンでは一発変換できなんだが、「おこう」と読む。

足摺岬くらいから、時々一瞬だけ凄まじい雨が降る。まさに南国は土佐の高知なんだけど、どーーーんより。田園の向こうに岡豊城が見える。あの小山がそれだ。

岡豊城遠景

遠回しな言い方をすれば、岡豊城の血筋は後に坂本龍馬を輩出する。
わかりやすく言えば、長宗我部氏の居城であった。

歴史民俗資料館の駐車場に車を停め、早速城めぐり。
階段を上がると二ノ段だ。

岡豊城跡 二ノ段

岡豊城は香長平野に突き出た標高97mの丘陵・岡豊山の上に築かれた城で、頂上を中心に築かれた本城を、厩跡曲輪と家老屋敷曲輪と伝えられる二つの出城が守る「連郭式平山城」である。

二ノ段からの眺望。
東方面を望むことができ、土佐国分寺跡などを望む風景は「土佐のまほろば」と称される。

岡豊城跡 東方面の眺望

二ノ段は、堀切によって詰(要は本丸)から隔てられている。
実際に歩くと、木々の茂みの先に、まさに堀切っぽい大きめな溝が掘られ、城郭の骨格がわかるようだった。

二ノ段の先は、詰下段(つめかだん)であり、詰を守る小さな曲輪だったようだ。
建物の礎石が見つかっている。

見切れているのは、アッコサンだ。

岡豊城跡 詰下段 礎石建物跡

さらに行くと、割と簡単に詰に着く。本丸と言える。
詰にも建物の礎石が見つかっており、二層からなる建物だと想定され、ひょっとしたら天守の前身のような形状だったのではないかと思われる。

岡豊城跡 詰

礎石の傍らに、ずいぶんと控えめな城址碑があった。
飛び乗って写真を撮ったものだ。

岡豊城跡碑

西に向かうと三ノ段。
ここには曲輪いっぱいに何かが建っていたらしい。
鉄鍋や石臼など、生活の匂いのするものが見つかったという。

岡豊城跡 三ノ段 礎石建物跡

古城感のある石段。
石垣もある。土塁もある。多くの人はきっと何もないと思うだろう。

岡豊城跡 石段

ちょうそかべ。ちょうそがべ。ちょうすがめ。ちょすがめ。
色々な呼ばれ方があるが、ちょすがめって、なかなか語感がいい。

長宗我部。長曾我部、長曽我部。書き方も色々ある。普通に長宗我部でいいや。
長宗我部氏は、秦氏と伝えられており、その起源をたどると始皇帝にまで達するという。飛鳥時代にはすでに日本におり、聖徳太子の信任を得て信濃国を拝領している。

土佐に流れついたとき(1000~1200年くらいらしい)、土地の名の宗我部郷から取って宗我部と名乗ったが、近隣にも宗我部を名乗る一族があったため、便宜上、長岡郡の宗我部は長宗我部。香美郡の宗我部は香宗我部と名乗ったという。

岡豊城跡 土塁

その、ちょすがめどんが勢いづいたのが戦国時代の中期以降で、20代当主の国親で大きく興り、21代当主の元親の代でついに四国一帯をほぼ制覇し、天下に名乗りを上げるのであった。

四ノ段の片隅に、立派な城址碑があった。
素晴らしく立派だ。

長宗我部氏岡豊城址碑

姫若子などと呼ばれた元親も、長ずるにつれ鬼若子と恐れられるようになり、ついには土佐の出来人と称賛されるようになった。四国は考えようによっては近畿にも近いので、もしかしたら天下をも!と思うのはやはり世間を知らぬからだろう。機内ではすでに織田が餅をついており、運よく信長が、四国総攻撃予定日に本能寺にて横死してくれるまでは運が残っていたが、時勢変わらず、秀吉に屈服させられ、九州平定戦では戸次川にて島津に豊臣軍はコテンパンにやられ、嫡男・信親が戦死してしまい、失意のうちにこの世を去る。

立派な城址碑のある四ノ段からの景色も良い。

岡豊城跡からの眺望

出城の厩跡曲輪は、「伝」と断りされているので、正確なところはわからないようだ。
ただ、虎口は堀切のようになっており、大掛かりな施設であったことを窺わせる。

岡豊城跡 伝厩跡曲輪跡方面 虎口

関ヶ原役、大坂役と辛酸をなめたちょすがめどんは、土佐をも失い、徳川泰平の世で「郷士」という江戸時代の武士階級でも異例といえる低い身分で山内系の武士から差別を受け続け、幕末を迎える。

高知県立歴史民俗資料館は、長宗我部の資料を中心に、土佐の歴史民俗風土を鳥瞰できる立派な施設だ。

岡豊城跡 歴史民俗資料館

薩長土。
幕末を動かした三藩は、すべて関ヶ原の負け組であったことは、日本史の一大特徴と言える。

負け組に甘んじても、負け犬にならなければ、いずれ日はまた登るかもしれないのだ。
曇ってたけど。


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28 新庄城跡 ~回想録①~

東北浦賀人旅Ⅱは酒田へ向かっているが、せっかく近くに来たので、2009年10月25日(日)に寄り道してみよう。そもそも2012年のことを2017年に書いてる時点でわけわからないのに…w

新庄藩六万余石。江戸は寛永二(1625)年、出羽の名門・最上家の山形藩改易により新庄藩が成立し、戸沢政盛が入府。政盛は関ヶ原の役に際して東軍に属し、上杉景勝と戦うも、その消極策を役後咎められ、常陸国松岡へ減封されていたが、先述最上氏の失脚と、徳川重臣・鳥居氏から養子を迎え準譜代の扱いを受けていたため、新庄藩を任されることになる。戸沢氏は無事、泰平の世を経て明治維新を迎えている。

別名、沼田城、鵜沼城。
おお、沼田とはなかなか親近感のある名前だ!

遺構としては、これはなかなか良いと言える。
素晴らしく遺っているとはいえないが、城郭の割り振りは比較的そのままに、現在は最上公園となり、戸沢氏始祖・衡盛と初代藩主・政盛、最後の藩主・正實を祀る戸澤神社が鎮座している。

表御門跡の石垣。
近世城郭の粋ともいえる切込接を用いている。

新庄城跡 表御門跡

藩の政庁であった御玄関内には戸澤神社。

新庄城跡 戸澤神社(御玄関跡)

最上地方だし別にいいんだけど、改易されてしまった最上の名を、今は公園名・最上公園として冠している皮肉。

新庄城跡 最上公園

戸澤神社の参道で、かつて本丸と二の丸を繋いでいた土橋。

新庄城跡 土橋

城郭としては本丸があり、水堀を挟んで二の丸がぐるり取り囲んでいる。三の丸はどちらかというと取って付けたような感じがあり、戦時を意識した趣ではなく、政庁であることを強く感じさせる。

城内には跡碑がそこここに置かれ、簡易な説明もあるのでじっくり公園散歩の感覚で巡ることができる。どの城址もこうあって欲しいな。

新庄城跡 御物見跡

新庄ゆかりの人物である造園家・折下吉延氏が手掛けた「心字池」。
折下氏は隅田公園や山下公園を手掛けた随一の人物である。

新庄城跡 心字池

藤嵐閣は、京都二条城の流扇閣を模した建物だそうなのだが、詳細は遂にわからず仕舞い。

新庄城跡 藤嵐閣

都市公園としても、水辺あり木々の梢あり、神社あり歴史ありで、よき憩いの地となっているようだった。

新庄城跡 二の丸から

雪の季節に訪れてみたいと、ふと思う。

新庄城跡 二の丸

この日。
2009.10.25 11:15
山形北部の新庄市はすでに冬支度で、ところどころ落葉、紅葉。夜は凄まじく寒い。

新庄城跡 噴水

この時の旅路は会津から山形へ出て、昼に米沢牛のステーキを食べて、その脂肪分の多さに気持ち悪くなり夜も吐いたりして散々だったが、速攻寝ると朝には回復し、山形市から新庄、鶴岡と歴訪し、城めぐりを楽しんだのだった。Yとの野郎ふたり旅だった。



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27 山形 赤倉温泉朝めぐり

5日目 2012.05.06(日)5:30

赤倉温泉は新潟にもあって、検索するとまずそこが出てくるが、ここは山形県の北部の、赤倉温泉である。源泉量の豊富な温泉地で、各宿がそれぞれの自家源泉を持ち、趣向を凝らした温泉を楽しむことができる。

GW時期は、冬と春の混在する不思議な季節で、このときが曇りの深い日だったからかもしれないが、どこか薄い雲の中にぽつんと存在しているような、そんな不思議なところだった。という感覚が訪問して5年経った今なお残っている。

赤倉温泉 残雪

その雲の中を巡っている。
松尾芭蕉も歩いたという、いわゆる奥の細道の一部分である。

戦後の稲作に革新的な役割を果たしたという保温折衷苗代。
保温のために発熱資材や電熱を使わず、温床紙やビニールなどを使って太陽熱を利用し、苗を育てる技法で、山形ではこの赤倉温泉で採用され、山形の戦後の稲作の大規模化の魁となった。
この技法のメリットは資材や設備にかける資金を大幅に節約できるうえ、大量に苗を育てることができる。まさに神のような発明であった。

山形県保温折衷苗代発祥之地。
赤倉温泉の片隅に碑石が置かれている。

赤倉温泉 山形県保温折衷苗代発祥之地

朝靄に煙る温泉街。
しずか。さむい。

歓迎 赤湯温泉

温泉街で5月から開催される日曜朝市では、野菜やおみやげ品が売っていて、たけのこ汁が美味しかった。あったまるわぁ!

赤倉温泉 日曜朝市 たけのこ汁

ウィークリーマンション隣接の足湯・せんしんの湯は24時間無料開放だ。
なかなかあったまるわぁ(たけのこ汁と同じ感想)

赤倉温泉 せんしんの足湯

すこしずつ晴れてきた。
温泉街をわける小国川。

小国川赤倉温泉

貞観5(863)年に円仁(慈覚大師)によって発見された。
馬が川から湧く温泉で傷を癒していたのを見て発見したという。
1200年も続く歴史の古い温泉だ。

川を・・・ちょっと掘ってみた。
温泉が出るかしら?いい年こいた浦賀人が掘る。
結果は、忘れてしまった汗

貞観年間は様々なことがおこっている。
3年には隕石が福岡に落下している。目撃情報のある世界最古の落下だ。
6年には富士山の噴火。
10年には播磨山城地震。平安京も被害があった。
11年は貞観地震だ。東日本大震災の一回前の大地震として知られる。
13年はすぐ近くの鳥海山が噴火。
16年は薩摩富士・開聞岳が噴火している。

このあたりは温泉が多い。瀬見温泉とか、鳴子温泉とか。
そうした地殻変動の落とし子なのかもな。
旅してる当時はそんなこともちろん考えもしなかったけど。


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ひとつひとつの旅がつながりあって、いつか一本の壮大な物語になる!!
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