5 若狭小浜 妙楽寺で仏像に出逢い浦賀人の心は洗われたのだろうか。

ここどーかなー。
Hが福井のまっぷるをめくって妙楽寺っていう寺を指さす。

名田庄から若狭小浜へ。一行は熊川宿を目指しつつ若狭小浜でなんかいいとこ無いかなーと探していたのだ。

高野山 真言宗 妙楽寺 北陸若狭観音霊場

ずいぶんと趣のある山門だが、駐車場はしっかりあったし、拝観料は400円。
11時すぎて観光客増えるかと思っていたけどここは静か。

妙楽寺山門

参道は長くはなく、雰囲気の良い木々の谷間を抜けるともう本堂だ。

妙楽寺参道

印象は、鎌倉っぽい!
浦賀人の地元の近く鎌倉は基本的に鎌倉時代に栄えた武士の都だが、こちらは開基が平安時代と古い。

雰囲気が似てると感じるのは平安期の仏教の境内の雰囲気を鎌倉も踏襲しているからなのか、勝手に浦賀人が勘違いしているのかはわからない。

妙楽寺境内

梵鐘がなんと慶長7年のものだ。関ヶ原の少しあとである。
自由についてくださいとあったのでHが大喜びで衝いたら、ごぉ~ん、と、古めかしいような懐かしいような音が鳴った。

妙楽寺梵鐘

本堂は小ぶりではあったが、内容はすごかった。
重要文化財の本堂は、鎌倉時代建立で若狭最古の建造物だ。

木造千手観音菩薩立像も重要文化財。
高さ176.3cmというから、158.8cm(頑張って159cm)のNよりずっと高い。等身大なのだろうか。
ほんとに千本も手があるのかいなと思いパンフの写真を一生懸命見ると、大きい手が30本くらいあって、小さ~い御手手が無数にあるのが解る。どうやら本当に千本あるらしい。疑ってすみません。

妙楽寺本堂 重要文化財

そしてその千手観音さま、なんとお顔が24もあらせられる。
正面に一つ、両脇に一つづつ。頭に無数の顔があって、全部合わせて24。これはとても珍しい例だそうで、滅多にお目に掛かれない特徴なんですって。

こりゃ何でも御見通しでしょうなぁ。浦賀人の煩悩なんてとっくに見透かされてらぁね(;´・ω・)

妙楽寺本堂

他にも平安時代のお不動様など、かっこいい!美しい!仏像が惜しげもなく本堂に鎮座していたんだが、これで市指定なの?とか、これでもまだ重文にならないの?本堂や千手観音さまなんて国宝でもいいくらいなのに、随分とまた遠慮がちだなぁなんて浦賀人の誰もが思った。

おっと、堂内の写真撮影は禁止だぜ。決まりは守って楽しい旅をしようじゃぁないか!
やや小腹の減ってきた浦賀人であった。

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4 名田庄で偶然発見☆安倍晴明(の子孫)ゆかりの地・土御門史跡にK大興奮!!O「凄いねぇ(小並感)」

道の駅 名田庄をあとにし、来た道戻る浦賀人。
来る最中に気になっていた「土御門史跡」なんのこっちゃわからなんだけど、ちょいと気になってので寄ってみた。
駐車スペースも何台分かあったぜ。

おおい町指定天然記念物の加茂神社の大杉が目印だ。
土御門といったら、そんな感じの天皇がいた気がしたが、なんにしてもお公家さんの苗字なんだって。

名田庄 土御門史跡 加茂の大杉

お公家さんでは藤原氏と源氏が名乗っていたが室町時代までには断絶したそうな。
で、安倍晴明との関係はというと・・・

これがまた14(または16)代も離れちゃってるんだ。
安倍家は代々日本の天文暦学を司る「陰陽寮」という重要な役職に就き、暦を造ったり占術、天文道を行い、その功績を認められ、土御門の苗字を時の天皇から賜ったというわけ。

陰陽道と暦のふるさと 名田庄納田終

この都から離れた土地で、朝に夕に、暦を策定していたという。
そんな安倍土御門氏が暮らしたこのあたりは納田終という変わった名を持っている。のたおいと読むんだぜ。
名田庄も珍しいし、史跡を結ぶ散策路には、美母呂(みもろ)の路というこれまた妙な名が付いている。美母呂の森とは、説明板によると「神々の棲む森」といった意味があるそうな。

名田庄 土御門総社

そんな土御門史跡にある土御門総社には、ちょっと珍しい神様が祀られていた。

名田庄 浦賀人土御門総社にて

泰山府君尊神。たいさんふくんそんしん。
中国の皇帝が信仰した神で、日本に輸入し安倍家の守護神となった泰山府君尊神は、長く一般の信仰は許されなかった。

宮中と安倍氏だけに許された信仰だったのだが、応仁の乱から逃れ、納田終に棲みついた安倍氏が居城を構え、奉祀すると、いつしか周辺の庶民にも信仰が広がったという。


鳥居が四方から中心の祭壇に向かって囲んでいる。
ハッと気づいた。「青龍白虎朱雀玄武」じゃないか!!

名田庄 青龍白虎朱雀玄武

この史跡に散在するお堂やお社は、安倍氏が都から持ち込んだ京文化の一端を窺わせる。
祭礼に関しても、京文化を色濃く受けたものだというから、やはり京人の地方下向というのは古今東西土地の歴史風土に大きな影響を及ぼすターニングポイントだったようだ。

名田庄 土御門 加茂神社

加茂神社もなかなか年輪を感じさせる神社だった。
苔むした石段。三十路を歩き始めた浦賀人は息を切らせつつ、そう長くもない石段を上がる。自分の人生に重ねるように。

名田庄 土御門 加茂神社境内

小雨はやみつつあった。
いつ降り始めたか忘れたが、これはきっと安倍晴明の御神託に違いあるまいに。


なるほどここなら!
暦を司る重要な要素。
星が綺麗にみえたろうな。さぞや。

雲間から垣間見た青空にそんなことを思ったんよ。

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3 今って日本のどこらへんなの?ここは名田庄!京都と若狭小浜を結ぶ周山街道の福井側の奥地の道の駅 名田庄さ

浦賀人はいつもこうさ。
福井ゆーてるんに、いま日本のどのあたりとか平気で聞いてくる!

福井はだいたい真ん中らへんのちょっと左めの、海沿いにギザギザ細長い場所さね。

でも海から数キロも離れれば秘境ムード満点の野山の山々が県境まで続いている。
意外といえばこれほど意外なことは無いね。

福井は京都と地続き。一瞬そんなばかなとは最初俺も思ったよ。


道の駅 名田庄(なたしょう。濁らない)は、かつて周山街道と呼ばれた京と若狭を結ぶ峠道の福井に入って割とすぐの所にある。

道の駅名田庄

なんでここへ来たんよと聞かれても、さぁとしか答えようがない。
どんなところか知りたかったからなだけだろう。

名田庄のもずく蟹

地産の、もずく蟹や錦鯉、めだかなんかが店先に売られている。
めだかはともかく、錦鯉の小さいのがこんなところで手に入るなんてなぁ。面白い。

名田庄の小さい錦鯉

思いのほか目に留まる物産の並ぶ店内。
名田庄漬というブランド名でお漬物を生産販売している。
昔も、これを売りに周山街道を登って京へ出たのだろうか。

ブランド漬物!名田庄漬

種類は豊富で3袋500円だ。
俺も3袋ちゃっかり購入し、親やご近所さんにおすそわけだ。

そば粉や自然薯も生産されるもんだから、自然薯ジェラートなんて奇抜なアイデアも出るわでるわ。

名田庄 自然薯ジェラート

Hが買ったのをひと口貰うと、んん~、自然薯かどうか、そもそも自然薯がどんな感じだったか解んねぇんだけど、これ・・・これかなってのが口内に引っかかった。
ん、悪くねぇ。場合によっちゃぁクセになるかもぜ!


道の駅にほぼ隣接し町営ホテルの流星館がある。
なるほど確かにここぁ夜中は星がよく見えそうだぜ。

名田庄 町営ホテル 流星館

広々とした敷地のベンチで、寝転がるのはOとN。
Oがインドで買ってきた像の絵が描いてあるTシャツをOとNがペアルックよろしく着ちゃっている。
そんな幼馴染腐れ縁。

名田庄 宿泊できる茅葺民家

流星館には、離れの茅葺民家に泊まることもできる。
ここは梅雨には蛍もいそうだし、夏場はカブトムシも採れそうだ。

子供がいれば、また、今度は泊まりに来てみてもいいかな。
四方八方を山々に囲まれた名田庄。

おじいちゃん。おばあちゃん。
そんな言葉が似合う、そんな名田庄だなぁなんてぼんやり思ったのよ。

でも京からのツーリング客も存外多いみたいだったぜ!


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19 金沢城跡 ~復元進む古城址~

金沢城下を歩いてみると、城下町の名残だけでなく、金沢城そのものの遺構も良く残り、よく保存整備されていることがわかる。

金沢城は、城下をすっぽりと土居や堀で囲んでしまう、「惣構(そうがまえ)」の構造となっている。
神奈川県の小田原城に代表される惣構という城下機構は、元々は中国の城郭都市からヒントを得ている。

要するに、城そのものが自給自足を可能にできる仕組みで、長期の籠城に耐えうる構造となっているのだ。
といっても、そういった時代は戦国末期には終わってしまった。大砲の出現と、長期籠城を覚悟した城側に付城を造り、超長期攻城の出来る体力のある強国ができたからだ。

秀吉は小田原を落としたが、小田原を参考に造った惣構の大坂城は徳川に落とされた。
一見無敵の惣構の城は脆さを孕んではいたが、泰平の世ではむしろ経済的に成功した形だったと言える。


金沢城の惣構は二重構造である。
遺構は、何の前ぶれもなしに町中に現れる。

東内惣構堀枯木橋詰遺構。主計町の入口近くにある
金沢城跡 東内惣構堀枯木橋詰遺構

惣構の堀は、広い所では10m以上のはばがあったことがわかっているが、江戸中期から後期にかけて、土居から石垣に改築されるとともに幅も狭められ、現在は水路程度の広さになっている。

主計町茶屋街を挟んで西内惣構緑水苑内遺構があるが、ここでは土居の高さがわかる。結構な比高がある。

せせらぎのようになってしまっている水の流れも、かつては満々と水が湛えられていたのだ。

金沢城跡 西内惣構緑水苑内遺構

なんとなしに流れている川のようなこの流れも、実は城郭の機構の一部であった。
知っていればより楽しく、知らなくても風景として充分に快い。

金沢城跡 西外惣構 旧宮内橋詰遺構

都市公園として整備された主郭の一部以外は苔むした古城址そのものだ。
川口門跡もその一つ。

金沢城跡 川口門跡

公園の一角にも櫓台を遺している。

金沢城跡 いしかわ四高記念公園

惣構の内側、今は金沢城公園となっているお城の外周を見てみる。
平成27(2015)年3月に復元整備が完了した「玉泉院丸庭園」側から迫ってみる。

かつて玉泉院丸の外郭には「いもり堀」という広大な人口の峡谷ともいえる水堀があった。
いもり堀の石垣は、下部が土の斜面となり、上部に石垣を積んでいる、「鉢巻石垣」の構造である。

かつては斜面の半ばまで水が張られていた
金沢城跡 いもり堀の石垣(鉢巻石垣)

復元の進む金沢城跡。
第二期整備計画が2015年に完了したが、第三期計画では鼠多門を復元するという。

金沢城跡 鼠多門復元準備

今は道路になっているが、尾山神社(かつての金屋出丸)と玉泉院丸へ続く鼠多門の間は水堀であるいもり堀があり、鼠多門橋が架かっていたという。

金沢城跡 明治初めの鼠多門・鼠多門橋

部分的だが復元されたいもり堀。
広大さがわかるがかつてはさらにこの先の道路まで幅があったという。

金沢城跡 いもり堀

付近には石垣の積み方や、普段見ることのできない石垣の後ろっかわが解るモニュメントが置かれている。
石垣博物館と言われる金沢城ならではだ。

金沢城跡 粗加工石積

玉泉院丸の復元により、兼六園と隣り合わせの石川門口、大手門口に続き、メインの入口となったのは玉泉院丸口だ。
早速上ってみると、復元されたての庭園が眼前に現れた。

金沢城跡 唐笠から玉泉院丸庭園

坪野石を使った石垣。
金沢城の石垣は戸室石を使っているが、ここだけは坪野石を使用している。

色合いが黒色で、混在して使用しているために、庭園ならではの見て楽しめる石積みになっているのだ。

それらしく書いてみたが、実際どこのことだかよくわかっていないw
金沢城跡 坪野石石垣

落差7mの階段状の滝は、辰巳用水を二の丸から通し、色紙短冊積石垣の下部前面の滝壺から地中の水路を経るという、大掛かりなものだったようだ。

金沢城跡 段落ちの滝

玉泉院(ぎょくせんいん)。俗名を永姫(えいひめ)といった。
彼女は織田信長の実の娘にして、前田利家の嫡男・利長の正室である。

贅沢!
そんな印象一点張りの玉泉院丸は、その名の通り玉泉院さんが剃髪し、晩年を暮らした場所であった。

金沢城跡 玉泉院丸庭園

玉泉院丸には「色紙短冊積石垣」というこれまた奇妙な石垣がある。

金沢城跡 色紙短冊積石垣へ

城好き垂涎の景色である。

金沢城最高峰の石垣郡 色紙短冊積石垣

色紙短冊積とは!!
色紙(方形)の石と、短冊(長方形)の石を意匠的に組み込んだ、防衛機能そっちのけのオシャレ石垣なのだ。

しかも、元来はV字型の石樋からは落差9mの滝であったことがわかっている。
つまり二の丸から引いてきた辰巳用水は、この石樋から9m落下し、人口の滝壺から地中へ入り込み、段落ちの滝へ流れ込んでいたというわけだ。

色紙短冊積石垣

前田家の藩祖・利家は傾奇者として天下に名を馳せた武将であったが、その子孫たちも遺髪を継ぐようにして金沢城のオシャレ化計画を進めていたのだ。

その、延長線上に今日の復元整備がある。といえるのかもしれない。


加賀金沢にはもう一つの顔があった。
一向宗!本願寺である。

彼らは源平合戦で有名な富樫氏を加賀から追い落とし、宗教の独立共和国といってもいい巨大な国家を樹立した。
その規模はまさに百万石であった。

戦国時代の末期までその勢力は衰えず、北陸全体にその勢力を伸ばしていたが、軍神・上杉謙信と対立し、魔王・織田信長と片っ端から戦国代表の男と対立することにより次第に消耗し、やがて織田信長に攻略された。

金沢御堂、尾山御坊などと呼ばれた寺院・・・実際は城柵堀を巡らした要塞だが・・・時代の遺構とされる「極楽橋」が二の丸と本丸の空堀に架かっている。堀の幅の広さに、その「巨城」をしのぶことができた。

金沢城跡 金沢御堂時代からの極楽橋

金沢城跡には、現在三件の重要文化財が遺っている。
一つは薪の丸の三十間長屋だ。

三十間長屋は幕末・安政の時代に火薬庫として建設された。
鉛瓦葺に海鼠壁をあしらった堅牢な二重多聞櫓だが、現在は金沢大学の書庫となっている。

金沢城跡 三十間長屋(重文)

入母屋造の突出部や、唐破風造の出窓があるあたり、オシャレ志向の金沢城らしい意匠だ。


本丸北側に遺る土蔵・鶴丸倉庫も幕末に建設された重要文化財の武器蔵である。
下部の切込石積がオシャレである。これもまた金沢城らしい遺産である。

金沢城跡 重文・鶴丸倉庫

金沢城にはかつて天守がそびえていたが関ヶ原合戦の後すぐに焼失し、かわって三階櫓、御殿が建設されたがこれも江戸期に焼失した。

城の中心部はその後二の丸に移り、現代における本丸は、不自然さがかえって自然なほどに、森、森、森となっている。

金沢城跡 本丸跡

これは妄想だが、金沢城の全ての復元が終わったと、し将来石川県知事が宣言した時、それでもうっそうと茂るこの金沢城本丸跡だけが森のまま残ったとしたら、それはそれで素晴らしいことなのではなかろうか。


金沢城には三御門と呼ばれる、城内の門でも特に重要な役割を担っていた城門があった。
一つは現存で重要文化財の石川門(後述)であり、一つは橋爪門であり、一つは河北門(後述)である。

菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓。本丸や極楽橋から二の丸へ出たときに広がる風景。右に橋爪門が見切れている

菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓。二の丸から

玉泉院丸口から上がってくると、よっぽど奇抜な巡り方をしない限り、三御門で最初に出会うのが橋爪門だろう。
右下に嫁の字の切れ端が見えるが、橋爪門の規模の大きさが窺える。

正確には橋爪二の門と言える。
2015年3月落成の、復元ホヤホヤの城門である。
一の門は高麗門形式で、こちらは櫓門だ。
枡形構造の橋爪門は二の丸への正門、つまり本丸は放棄されているので政庁としての二の丸への正門として、城内で最も重要な門であった。

構図は三の丸から入った時で、実際は二の丸から三の丸へ出ていく方向であった
金沢城跡 橋爪門(復元)

その、橋爪二の門の敷石もオシャレそのもので、正方形の石を斜め45度に敷き並べたものであった。
これは御殿の玄関周りの敷き方と同じであったことがわかっており、この門の格式の高さをものがたっている。

金沢城跡 橋爪門の敷石 四半敷

三の丸へ出ていく。
素晴らしい緑の芝生の向こう側に、復元された 橋爪門続櫓・五十間長屋・菱櫓が並んでいる。
金沢城で記念撮影をするならまづここを選びたい。

金沢城跡 菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓(復元)

2010年に復元された河北門は、金沢城大手から三の丸への正門であった。

金沢城跡 河北門(復元)

橋爪門同様、復元に当たっては当時の姿そのままを目的に、工法から忠実に再現されている。
2008年の夏は、まだ石積みだけであった。

金沢城跡 河北門復元の様子

もうできてるかなーと思っていた2009年の春も未だ築城中だった。

金沢城跡 河北門築城中

内部見学をできる貴重な機会にも巡り合えたが、復元が成ったら必ず再訪しようと決めていたのだ。

金沢城跡 木造復元河北門築城中

それから、6年の月日が流れやっと再訪が叶ったが、なんと河北門どころか影も形もなかった玉泉院丸や橋爪門まで竣工されていて、今回は本当にラッキーだった。

金沢城跡 河北門枡形から菱櫓

河北門の構造も基本的には橋爪門と同じだが、枡形が土塀の構造であったり、ニラミ櫓台の存在など、防衛面ではこちらに重点が置かれていたようだ。

金沢城跡 新丸と武者走り?

坂を登ってくるという点で、攻城側としてはけっこうしんどいだろうと想像できる。

金沢城跡 河北門一の門

来訪者は、このニラミ櫓台と、奥に見える菱櫓の美しさに見惚れたことだろう。

金沢城跡 河北門から菱櫓

大手筋の新丸から菱櫓を遠望する。
実質天守といっても恥ずかしくない威容を誇っている。

金沢城跡 新丸から菱櫓

多くの城郭に用いられた、流行りの意匠が大手門に使われる大きな石「鏡石」だろう。

金沢城跡 鏡石

尾坂門が、金沢城の大手門だったとされる一つの根拠として、この鏡石の存在が挙げられている。
それくらい、鏡石の大手使用は往時ポピュラーだったのだ。
金沢城石垣は、マニアックさだけでなく、しっかり定番どころも抑えているのがポイントだ。


三の丸北側が大手筋だが、東側は搦手筋である。
兼六園とつながり、石川門があることから一番有名な金沢城への入口であろう。

粗加工石積みには鮮明に刻印が残っている。

石川門石垣刻印

古文書にも「これはおかしい」と書かれている左右で積み方の違う石積み。
左が粗加工、右が切石積みという。打込接と切込接とは少し違うのだろうか。
説明板には、前回来た時に撮った写真には「打込接・切込接」となっていた。6年の間に改訂されたのだろう。そこに案内者の拘りを感じてならない。

石川門石垣

三御門で唯一現存する石川門だが、基本的には二の門が櫓門、一の門が高麗門であることは同じだ。
ただ前述のとおり石積みがここでは特徴的である。

石川門二の門(重文)

なにより現存であることの価値は限りなく大きい。
時を経てこの美しさ、時を経たからこその美しさがそこにはある。

石川櫓(重文)と石川門一の門(重文)

夜景は2009年のものだ。
今回はあちこち欲張ったため城のライトアップまで手が回らなかった(;´・ω・)

金沢城石川門夜景

石川門から下って、外堀公園の白鳥路という散策路の脇、少し目立たないところに前田利家公の像がある。

金沢城跡 前田利家公之像

有名な金の鯰尾の兜を被った勇猛な利家の像だが、時代に取り残されたようにずっと外の堀跡に佇んでいるのだろうか。。。

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18 回想録・金沢の町をそぞろ歩いた記憶

金沢城下を歩いてみる。
兼六園の南側。

金澤神社は、藩政時代に藩校の鎮守として学問の神様である菅原道真を祀ったのがはじまりという。
すぐ隣には「金沢」の名の由来となった「金城霊沢」がある。
芋掘藤五郎という男が芋を洗ったら、砂金が出た、という珍妙な伝説が残っている。

金澤神社
2009.05.05(火)17:00ごろ

石川護国神社には、主に石川出身の英霊が祀られている。
護国神社は全国に存在し、その総元締めは東京九段の靖国神社であるが、特徴的なのはやはり「大東亜聖戦大碑」だろう。

石川護国神社
2008.08.05(火)13:00ごろ

ここまで大東亜戦争(太平洋戦争)を肯定的にとらえた神社も稀である。
聖戦。この言葉は相当重い。


すぐそばに、辰巳用水が結構強い流れで流れている。
辰巳用水は城及び城下の防災と水の確保のために整備された。

金沢 辰巳用水
2009.05.05(火)17:00ごろ

暗渠4kmと開渠6kmをもって犀川から引かれており、日本最古の逆サイフォン管路を備えた用水路であるとのこと。


南東に続く道を進む。
今は石川県立歴史博物館となっている、赤れんがの建物は、大正時代に兵器庫として建てられた施設である。

重要文化財 旧金沢陸軍兵器支廠兵器庫
2009.05.05(火)17:00ごろ

道なりに歩くと、小立野通は飛梅町界隈に出る。
ここも用水路が流れる町並みで、交通量はなかなか多い。

飛梅町界隈
2009.05.05(火)17:00ごろ

城下には「加賀八家」という前田家の代々の家老職に就いた名家が城を護るようにぐるりと点在しているが、奥村家も八家の一つであった。

加賀八家「奥村家」(宗家)屋敷跡
2009.05.05(火)17:00ごろ

奥村永福。
奥村助右衛門という名の方が最近は漫画やゲームで通りが良くなっている。
代々前田家に仕えた家系であり、八家の中でも宗家と支家の二家が前田八家を担っていた。

金沢はゆっくりと散策するのがおススメだ。
町々には町名の碑やその由来が書かれていたり、ふとした所に江戸時代の風情が残っていたりする。
急ぎ足で巡るにはちょっと魅力が多すぎるのだ。

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