三溪園

 2011年11月27日(日)国指定名勝 三溪園へ紅葉狩りに行ってきた!が、残念ながら紅葉の見頃にはまだ早かったようで、緑の中に所々赤や橙が混じっているような感じだった。

 三溪園は、明治時代から大正時代にかけて製紙・生糸貿易で財をなした横浜の実業家・原三溪(本名 富太郎)が、東京湾に面した「三之谷」と呼ばれる谷あいの地に造りあげた、日本庭園である。

 美術・文学・茶の湯など近代日本文化の一端を育んだ場所でもあり、学術上・芸術上、観賞上に優れていることから、平成19(2007)年に国の名勝に指定されている。

正門を入ると、いきなりこんな景色。
正門から

 本牧にこのような景色があるのが、まず驚きであった。
大池が眼前にひらけ、三重塔がそびえている。右側に見える白い煙は工業地帯の工場の煙である。
 
 残念ながら紅葉には早かったが、すすきが湖畔に茂っていた。大池には鯉が水中に、鴨が水上に泳いでおり、のどかな雰囲気をかもし出している。

すすき

 三溪の住まいであった鶴翔閣(市指定有形文化財)を眺めながら、枯れた睡蓮池を通り過ぎ、京都東山の西方寺から移築した御門(薬医門・市指定有形文化財)をくぐれば、まさに京の古道にでも入り込んだような趣である。

 このあたりが、原家が私庭として使用していた「内苑」である。内苑は、主に江戸~大正期の建造物が配置され、重要文化財が六件もある。

重要文化財 臨春閣 御三家、紀州徳川家初代藩主頼宣の別荘
臨春閣

 池越しに臨春閣を眺めながら歩く。やがて後方、色づいた銀杏の木の下に、豊臣秀吉が建立した旧天瑞寺寿塔覆堂が見える。秀吉が母の なか の長寿祈願を願って天瑞寺(てんずいじ)を建てさせた。寿塔(じゅとう)とは、生前墓であり、寿塔を覆うのが、この覆堂(おおいどう)である。建築は天正19(1591)年、堂々の重要文化財だ。

         旧天瑞寺寿塔覆堂

 臨春閣には、秀吉愛用の瓢箪の絵があしらわれている手水鉢(瓢箪文手水鉢)も置かれている。これは、後に藤堂高虎に下賜したもので、伊賀上野城から移設されたものである。

         瓢箪文手水鉢

 そう多くなかったが、紅葉も少し楽しめた。まだ青々としているところもあったが、日当たりの加減によって、一部色づいていた。筆者の古いデジカメで必死にズームをして、ボケてはいるが、少しは雰囲気が伝わるだろうか・・・

せせらぎと紅葉

 春草廬は、織田信長の実弟、織田有楽斎の作と言われる。有楽は武人としては凡庸だったが、茶人、文化人としては傑出した人物で、現代に国宝も残しており、尾張(愛知県)の犬山の茶室 如庵がそれである。

春草廬(しゅんそうろ)はこの時期、内部の特別公開中であった
春草廬内部

蓮華院。竹林が見事である
         蓮華院

 竹林の撮影に苦心しつつ、蓮華院を横目に歩くと、海岸門。
門を潜ると、そこから先が「外苑」だ。門の先すぐの坂を登ると、松風閣という展望台に出る。展望台からの景色は、観覧者がみな期待をするところ大であったのだが、そこにひらける景色と来たら、本牧の工業地帯を見晴るかす。というわけで、期待外れの観覧者たちは展望台に登るやそそくさとその場を後にするのだった。

うっすらと富士山が見えたのだが、多くの人は気付かなかっただろう
松風閣からの眺望

 次に、三溪園の入りばなに見た、旧燈明寺三重塔(重文)の真下に行く。近すぎてなかなか撮影のポイントが見つからない。というより、こうした三重塔などは、比較的遠巻きに眺めるのが一番良いのだろう・・・と、自分自身の撮影技術を糊塗してみる。

 坂を降ると、横笛庵や、限定公開中の旧東慶寺仏殿(重文)が目を引き、更に飛騨(岐阜県)白川郷から移築された合掌造りの旧矢箆原家住宅があり、こちらは常時内部を見学できる。

合掌造りの内部
合掌造り内部

 こういった古い日本家屋に、住んだこともないのに懐かしさを感じるのは、日本人としての記憶なのだろうか・・・少なくとも、子供は正直そのものの感想であるが。

むかしのいえはボロだなー

 筆者にも、未だこうした子供の感性が残ってしまっているようだが、同時に古建築の良さも分かり始めてはいるつもりなので、感想ノートには余念なく名前のみを記しておいた。
そっと囲炉裏に手をかざすと、ほっと安心感が体を撫でるような、そんな気持ちになった(わざと臭いか・・・汗)

三溪園天満宮


 三溪園天満宮に拍手をうち、観心橋から三重塔を眺めて、これで三溪園をほぼ一周した。庭園といえば、兼六園などの大名庭園やお寺の一角にあるような庭園を想起するが、原 三溪 という、一個人の造った庭園でこれほどの規模というのは珍しいのではないだろうか。
重要文化財四件を擁する外苑は、開園当時、明治39(1906)年には、三溪の自筆で「遊覧御随意」と書かれていたという。これほどの文化財を独り占めすることなく、一般の人々に開放していた事には、素直に偉い人だなぁと感嘆した。

観心橋から三重塔


 正直思っていたよりも見所が多く、飽き性な筆者でも充分楽しめた。いずれまた、今度は桜の季節や紫陽花の季節に来てみても良いかな。と思った。6月にはホタルも見ることができるという。



三溪園(地図) 
(国指定名勝 重要文化財10件、市指定有形文化財3件)
開園時間:9:00~17:00(入場16:30)
入園料 :大人(中学生以上)500円 子供(小学生以下)200円
     他、団体・障害者割引あり、回数券、年間パスあり
駐車料 :乗用車 2時間まで500円 以降30分毎100円、
     上限1000円バス 1000円
休園日 :12月29・30・31日


参考:三溪園パンフレット

関連記事

テーマ : 日本文化
ジャンル : 学問・文化・芸術

安土城跡 ~覇王の夢を追う~

Nが特別史跡 安土城跡に行ったのは、かれこれ3年前になる。
日本に数多く出た人物の中で、この城を築いた男ほど激烈な男は見当たらない。その男とは

織田信長

である。
信長の生涯は生前信長自身がこよなく愛した「敦盛(幸若舞)」の

人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり ひとたび生を得て 滅せぬ者の有るべきか

に凝縮されていると言えるかもしれない。
信長は明智光秀や羽柴秀吉、同盟であるはずの徳川家康など、有能な部下を酷使の上に酷使し抜いたが、一番こき使ったのは恐らく自分自身であろう。

信長は幼少時に母親に疎まれ、青年期に父親に先立たれ、さらに平手政秀という傅役を慕っていたが、これも信長の奇行を戒めるために自刃(諫死)した。
家督を継いだ信長は、お家騒動に勝ち抜き、今川義元の大群を桶狭間に屠り、美濃にピストン攻撃を加え、策略をもって平定。更に近江、京と、まさに台風がいそいそと駆け抜けていくように100年に渡る戦国時代の大風呂敷を信長一手でほとんど仕舞い込んだ。

安土城は1576年(天正4年)に築城されている。
「安土」 とは、単なる地名ではなく、京の「平安楽土」に対抗して名付けられたものであろう。

安土城跡の第一印象は
「やっぱり、他の城とは違う空気を持っているな」
だった。このときの旅行で、犬山城、岐阜城、大垣城、彦根城、小谷城、長浜城、観音寺城と巡っており、他にも数々の城を散策してきたが、安土城に漂う空気は、そのどこの城とも違ったものだった。

大手道
大手道


まっすぐにのびる大手道を一歩一歩踏みしめながら歩く。
大手道の左右にはそれぞれ「伝 羽柴秀吉邸」や「伝 前田利家邸」と、家臣団の屋敷が並んでいる。
防御面で疑問視されている安土城だが、敵襲の際、この家臣団の邸宅=要塞 に籠められた兵が陸続と現れると思うと、ちょっとぞっとする。その上、まっすぐのびる坂の石階段は鉄砲の標的になりやすいのではないか。

伝 羽柴秀吉邸跡。ぱっと見でも邸宅を兼ねた立派な要塞とわかる
627 伝 羽柴秀吉邸跡2

安土城の説明看板にあった羽柴秀吉邸の復元予想図。上下二段の郭からなる
羽柴秀吉邸復元図


摠見寺の先で大手道は左に急旋回する。
城の種類としては、低めの山を城塞化した「平山城」であるが、登っての実感は
「おもったよりキツいな」
だった。平山城として、その規模はかなりのものである。

曇だったのが残念だが、かなりの眺望。左側が摠見寺の寺域
大手道の眺望


今度はうねった石階段を登る。やはり途中途中に郭がある。
織田信忠邸と伝わる郭は森蘭丸邸より低い場所にあるが、これはちょっと信じられない。信長の寵臣だったとはいえ、信長の嫡男であり、織田家の正統な後継者がそのような扱い(つまり一家臣程度の地位)だったとは考えにくいが、所詮は素人考えなのだろうか(汗)

うねった大手道。杖をつきながら登るのがオツ
うねった大手道

森蘭丸、織田信澄邸址をすぎると、やがて黒金(くろがね)門に到る。本能寺の変で信長が倒れた後、安土城の建物は全て焼失したが、石垣は400年前の当時のまま現存している。

黒金門跡。ここから石垣の石は大きくなる
黒金門跡

更に少し登ると、昭和の登山道整備の時に発見された仏足石が置かれている。この時代は信長だけに限らず、石垣の石材を節約するために、しばしばこうしたものが仏閣などから徴発されたようだ。大手道の石段にも幾つか石仏が確認できる。現代に生きる筆者も、これら石仏を踏んだりするのは仏罰下るのではないかと畏れを抱いてしまう。

信長は安土城を神の住む城と位置付けて考えていたようで、近年の研究成果から、信長自身が全ての神の頂点に君臨するイメージで安土城の天主閣が作られたことがわかってきたらしい。

仏足石

その理念を具現化した天主閣も今はその礎石を残すのみ。

織田信雄公四代供養塔、仏足石と進むと、やがて二の丸、織田信長本廟、更に千畳敷と言われた本丸跡に到達する。黒金門あたりから先はうっそうと木々が繁っており、古城の威容が感じられる。そして、まさに夢の跡といった趣の本丸の先が、天主閣跡である。

ほとんどの城では「天守閣」と書くが、安土城では「天主閣」となっている。まさに信長の理念を現した、「天の主の閣」なのである。

天主閣礎石

そこに立つと、思ったより狭いのかなという印象を持つ。しかし実際は、天主台自体は現代では上部の石垣の崩壊が大きく、その全貌がわからないが、当時はなんと今の二倍ほどの大きさがあったという。そう考えれば、やっと七重(地下一階)天主閣の雄大さが少しだけ想像できてきた。

今は干拓事業ですっかり琵琶湖面が遠のいているが、築城時は琵琶湖に面しており、まさに水陸の要衝に史上初の天主閣がそびえていたのである。

天守閣からの眺望は今でも素晴らしい・・・はずなのだが、あいにくの曇で(汗
天守台からの眺望

帰りは百々橋口から降りる。こちらは城内を訪れる多くの人が通った道で、城下町から続いている。元々、摠見寺はこの百々橋口にあったが、江戸時代末期に焼失したため、大手道の伝 徳川家康邸跡に寺域を移した。

摠見寺は信長が創建した本格的な寺院である。当時は近江国各地から移築した伽藍が立ち並ぶ寺院で、中世の密教寺院特有のものだったという。

重要文化財の二王門。他に三重塔が重文指定されている
二王門


安土城は面白い!初めて行ってからすでに3年の歳月が流れたが、天気のよい日にもう一度じっくり時間をかけて巡ってみたい。しばらくぶりに自分で撮影したヘタクソな写真を見つつ、記憶を手繰りながらのブログになったが、書けば書くほど新たな疑問が湧いてきて、我ながら物足りない内容になってしまった・・・


安土城跡地図



   にほんブログ村 旅行ブログ 国内旅行へ   

関連記事

テーマ : 城めぐり
ジャンル : 旅行

新嘗祭

11月23日は

「新嘗祭」

である。
 新嘗祭(にいなめさい、にいなめのまつり、しんじょうさい)は、皇室の祭祀の一つで、五穀豊穣を感謝し天皇が天神地祇(てんじんちぎ・・・簡単に言うと天の神、地の神、つまり神々)に新穀を供え、天皇自らもこれを食す。年間30前後ある祭祀の中でも最も重要な祭祀である。


 戦前までは新嘗祭で通っていたが、戦後は「勤労感謝の日」といった国民の祝日となっている。
 今年は天皇陛下がご病気で入院中なので、掌典職のトップ、掌典(しょうてん)長が代拝しているそうだ。儀式は夜と未明の約二時間づつ、計四時間のほとんどを畳の上、座布団無しの正座で過ごす重労働だ。
 皇太子殿下は陛下とは別の部屋に控えておられるが、後々のことも考えて皇太子殿下が代拝してもいいのではないかと素人目に思うのだが、何か特別な理由でもあるのだろうか?


 先日から読み始めた古事記に、こんなシーンがあった。
スサノオがオホゲツヒメに食べ物を求め、オホゲツヒメは

「鼻口また尻より、種種の味物を取り出して、種種作り具へて奉る時に」
 
つまり「鼻や口や尻から色々な美味しい食べ物を取り出して料理してくれる」
が、スサノオはそんな穢いものが食べれるか!とオホゲツヒメを殺してしまう。すると、オホゲツヒメの

「頭に蚕生り、二つの目に稲種生り、二つの耳に粟生り、鼻に小豆生り、陰に麦生り、尻に大豆生りき」

つまり、「オホゲツヒメの頭から蚕、目からは稲の種、耳からは粟、鼻からは小豆、お○○○からは麦、尻から大豆が生えてきた」そして、それらを取って種とした。という、五穀の起源の神話がある。


 神話の世界観では、食べ物は神様の命と引き換えにもたらされたものであると考えられていた。
古代日本ではご飯を食べられる日は「ハレ」と言って、感謝の思いを込めてお祭り騒ぎをしたという。
この感覚は習慣として現代でも引き継がれている。だから、食べる前は「いただきます」で、食べた後は「ごちそうさまでした」と言う。


 新嘗祭は全国の神社でも行われている、「食」に対して感謝をする、「いただきます」「ごちそうさま」の総決算の祭りなのであり、ざっくり言うと「収穫祭」なのだ(弟に教わった)。
 筆者も、普段は気にも留めずに、雑に「いただきます」「ごちそうさま」と言い流してしまっている。
今日は、食事の前に、ご飯を食べられることが「素晴らしいこと」なんだという事を、少しだけ思い出してみた。一年に一度はそんな日があっても良いなって思った。



参考:神社本庁(コラム・新嘗祭) 、 古事記 、 ネット上のニュース記事(出典は失念(汗))
関連記事

テーマ : 日本文化
ジャンル : 学問・文化・芸術

浦賀 ~旅のはじまり~

 旅日記らしきものを書くにあたって、いったいどこから書き始めようかとぼんやり苦慮していると、ふと最近テレビなどで割合クローズアップされはじめている、筆者のふるさと、浦賀の情景が浮かび上がった。
 『浦賀』
なる町は歴史上、いわゆる幕末の時代、アメリカのマシュー・ペリーが黒船で来航したことでご存知だと思われる。


太平之 眠気をさます上喜撰(蒸気船) たつた四はいて 夜もねられす

 曽祖父たちは、浦賀湾に突如姿を現した黒い異物に、恐怖心と好奇心をないまぜにした心持で、「何はともあれお茶でもいっぷく」といった様子で、洒落っ気たっぷりに後世語り継がれる狂歌を詠んだ(上喜撰はお茶の銘柄)。

 近年では、「来航の地」という枕詞は隣町の久里浜や、静岡県の下田にお株を奪われがちであるが、浦賀町民は枕詞に大きく拘ることもなく、この歴史的役割を果たし終えた静かな古港町に愛着を持って住み暮らしている。


左側が浦賀ドック、右側が浦賀商店街
浦賀商店街


 浦賀の駅は京浜急行の終点である。
 3年ほど前から電車の到着音が急に「ゴジラ」の上陸音に変わり、この町の井戸端では数日間に渡り賛否の議論が交わされたが、いまではすっかり定着しており、著者も朝からこの場違いともいえる破壊音を苦もなく受け入れている。
 なお、京急は堀の内駅から久里浜方面、三崎口へ向う路線と浦賀へ向う路線に分かれるが、浦賀方面が本線なので、その点お間違えの無きように(これは浦賀住民のこだわりである)。


浦賀駅

 浦賀駅の改札から出て、まず見えるのがおそらくは学校だと思われる。それが著者の通った創立110年を超える「浦賀小学校」である。

その左に見えるのが、通称
 浦賀ドック
2003年に護衛艦「たかなみ」の竣工をもって閉鎖となった。
現在では地域の人々のコミュニティーの場として利用されている。

 浦賀周辺地図はバスロータリーの真ん中あたりに看板があるので、それを参考に散策するといい。


ボライドから撮影した浦賀ドック
浦賀ドック


 浦賀ドックを左手に、浦賀商店街(一枚目の写真)を歩くと、屯営跡の碑の説明板(ドック横)や大衆帰本塚の碑(浦賀警察署横)といった、浦賀の歴史が垣間見れるものが散在している。浦賀ドックのレンガ壁はここに確かに歴史が息づいていたことを今に教えてくれている。


大衆帰本塚の碑
大衆帰本塚碑

 ドックに沿って歩いていくと、みちなりのカーブの右側に「浦賀文化センター」という小さな施設がある(坂を30秒ほど登る・プールに隣接)。
 この付近は「ボライド」と住民から呼ばれている。昔、洞(ほら)と井戸があったかららしい。
館内には手作りではあるが浦賀の古い町並みや咸臨丸の模型や、多少の資料が展示されている。入館料は無論、無料である。


浦賀文化センター
浦賀文化センター

 浦賀文化センターから少し歩いて、信号を郵便局の方の路地に向って歩くと、車通りの少ない、安全に西叶神社へ行ける道。信号を直進すると、車どおりが多く歩道もないが浦賀湾を横目に西叶神社へ向う景観のよい道。
 写真は浦賀湾沿いの道。少し前にミニストップができた。

西叶神社側から見る東叶神社=浦賀城遠景
浦賀城遠景


 叶神社は東西に分かれている。
 著者は幼少時より、西叶神社をよく遊び場としていた。
最近では願が叶うと評判で、昨今流行のパワースポットとして秘かに人気が出てきている。

西叶神社

叶神社では、毎年第2土・日曜に例大祭があり、地元では
 浦賀祭り
と通称され、近隣だけでなく、遠方からも来訪する人がいるほどで、路地は夜店と人でごった返し、神輿も各町内からそれぞれ出張って浦賀の通りを周遊し、今でも活気があふれにあふれる祭りである。
付近の為朝神社では、無形文化財に指定された「虎踊り」が今でも毎年催されている。


浦賀祭りの夜店。祭囃子と人々の活気がムンムンだ!
浦賀祭り夜店

 愛宕山は、西叶神社の少し先の小山である。
 桜の季節は素晴らしく、与謝野晶子の碑、咸臨丸出港の碑など、浦賀の歴史にかかわる碑文も多く置かれている。
ここからは浦賀湾、東叶神社、有名俳優Kがアイ・キャン・フライしたマンションや、その先の東京湾が眺望できる。

愛宕山から少し先、秘密の絶景ポイントからの浦賀湾
浦賀湾

浦賀の渡船は、東浦賀から西浦賀へショートカットできる便利な渡船である。地元では
 ぽんぽん船
と通称され、親しまれている。
5分程度の船旅で、
大人150円、子供50円、その他(自転車等)50円である。
横須賀市唯一の市営交通事業で、市道2073号線の水上区間となっている。
ちなみに、浦賀港に沿って歩くと、30分以上掛かってしまう。

ぽんぽん船

 ぽんぽん船からは浦賀湾や東西叶神社、愛宕山などが眺められる。観光以上に、東西浦賀を行き来する地元民の大切な交通機関でもある。漁船も近くに数隻停泊しており、浦賀病院向いの埠頭は地元の釣りの人たちの穴場となっている。

 ぽんぽん船で西浦賀から東浦賀に渡ると、すぐ東叶神社である。
先の西叶神社で勾玉を入手し、東叶神社で袋を入手し勾玉を入れておくと、恋愛の縁結びになり、絶大な効力を発揮するという。

東叶神社

 東叶神社境内には勝海舟使用の井戸があり、境内裏山は戦国時代の浦賀城址である。
裏山には勝海舟断食の碑などがあり、展望場からは、かつて首切り場であった燈明堂が眺望できる。
東叶神社から浦賀駅までは、徒歩10分程度である。
浦賀ドックを左手に、ゆるりとそぞろ歩きをしていただきたい。

 ひとまず、ありあわせの写真だけで浦賀湾周辺を廻ってみた。
浦賀は、決して観光地ではなく、リゾート地ではなく、情緒あふれる港町でもない。
でも、浦賀に住む人は、確かにこの地を愛し、確かにこの地をふるさととしている。
浦賀とは、そんな魅力にあふれた、温かい町なのである。

京急の記念車輌・ギャラリー号
京急・ギャラリー号


では、
しったかぶらせていただきますm(_ _)m


筆者は、いつもここから旅をはじめて、ここへ帰ってくる。
帰る場所があってこその旅。

ふるさとは、遠きにありて思うもの いつも心に抱くもの

なんだと思う。
浦賀に素晴らしい客人が来訪する日を、心待ちにしております♪


浦賀 ~旅のはじまり~ 参考地図

関連記事

テーマ : 歴史・文化にふれる旅
ジャンル : 旅行

『 第一章 神話 』 へ向けて…

このブログを開設する際、こだわりたかったことがあって

『 第一章 神話 』

と銘うって華々しく歴史旅の開闢(かいびゃく)だ!!
と行きたかったのだが、
・・・知識が全くないことに今更気付いて、この大構想はあっさり頓挫した。


日本の歴史は神話に端を発する壮大な物語なのだ!!


と、ぶちたかった。
でも、残念ながら今の筆者には「しったかぶり」をする最低限の知識すらない。

そこで、たまたま大学生の弟が国文学を学んでいるので、工業高校卒で学問ゼロの筆者は弟に教授になってもらうことにした。

筆者「弟よ、日本の神話ってどんな感じ?面白いかな?」
弟「まぁ、面白いよ。神様のクセに食卓でウ○コしちゃったり、素っ裸になって踊り狂ったり・・・」
筆者「そんな軽い感じなの?それ、どの本で読める?」
弟「古事記っていう本に載ってるよ」

筆者は嫌がる弟から無理矢理、大学でテキストに使用している『古事記』を借りた。
「素っ裸になって踊り狂」ったりする場面は、割と有名な
『天の岩戸隠れ』
の場面だった。借りた古事記には

「神懸りして、胸乳をかき出で裳緒を陰に押し垂れき」

とある。つまり、ハイテンションになってオッパイをむき出しにして着物を陰部(お○○○)まで下げて踊り狂った。
・・・「陰(ほと)」って言うのがいかにも艶やかな印象だが、神々はどうやらかなり大らかだったらしい。


とにかく、筆者は古事記を読み始めた。
昔の言葉で難解だけど、何となく雰囲気は分かるきがする。



では、
しったかぶらせて頂きますm(_ _)m

古事記の神話の最初には
「天地初めて発けし時」
つまりこの世界ができた時が書かれている!

知ってました?
筆者は昨日、知りました(汗...




参考文献:「古事記 倉野憲司校注」岩波文庫 (弟から借りた)

関連記事

テーマ : 歴史・文化にふれる旅
ジャンル : 旅行

プロフィール

ぬたーむ

Author:ぬたーむ

日本全国を巡ってます!
ひとつひとつの旅がつながりあって、いつか一本の壮大な物語になる!!
かもしれない☆
ブログはつれづれ、旅はガチ、歴史はぼちぼち
そんな毎日でありたいなw

★旅行ガイド専門サイト★
『たびねす』『itta』
に記事を寄稿してます☆
『たびねす』ではポイントを絞ってご紹介!
『itta』ではドタバタ道中も一緒くたの旅栞!
ぜひ見に来てね!

あとツイッターも…
『旅景より』


ぜひitteね(*´з`)

旅行メディア「itta」



カウンター


総記事数:

ランキング
最新コメント
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

最新トラックバック
もろもろ!
旅の記憶
旅日記や城巡りなどの一覧
カテゴリ & ブログ内検索
カレンダー
10 | 2011/11 | 12
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 - - -
最新記事
月別アーカイブ
全ての記事を表示する
全ての記事を一気読み☆

※全記事一覧※

QRコード
QR
RSSリンクの表示