13 宇和島城

3日目の宿は宇和島リージェントホテル。
夕飯は四国を中心にチェーン展開をする「焼肉じゃんじゃか」宇和島店で焼肉をたんまり。

宇和島城ライトアップ

夜めぐりは、懸命に宇和島城のライトアップベストスポットを探すもなかなか見つからず。

宇和島城夜景

試みに「空角の経始(あきかくのなわ)」と呼ばれる藤堂高虎の縄張りである、五角形の街並みを歩いてみた。
天守のある80m程度の小丘陵の周りの街なみは、今でも五角形だ。

夜の、真っ暗な宇和島の民家の並ぶ街。学生の男女が自転車で通り過ぎた。
この町で生まれ、この町の風に吹かれ、この町で夢を持ち、この町で恋をして。そしていつかこの町を忘れるのだろうか。
などと思いすごしたりした。

「四方の間、合わせて十四町」と徳川の隠密を騙し切った宇和島城下は、熱帯夜の蒸し暑さと閑街の静けさが混沌としていた。


4日目 2010.08.04(水)

宇和島リージェントホテルから程近い南側の登り口、上り立ち門から登城する。
上り立ち門は、武家の正門とされる薬医門であるが、搦手筋にある。

宇和島城 上り立ち門口

現存の薬医門としては、国内最大クラスの貴重な現存建物で、市指定有形文化財に指定されている。

登城口はまるで山城に分け入っていくような風体である。

宇和島城 古城の趣

石垣は苔むしている。
真夏の蒸し暑さも相まって、さながら東南アジアの寺院遺構のような雰囲気だ。

宇和島城 苔むす石垣

登城道は幾度も折れ曲がり石垣に囲まれている。

宇和島城 枡形

土俵も。城跡に多い土俵の謎。

宇和島城 土俵

野面積石垣がそびえている。

宇和島城 石垣

古城の雰囲気が実に素晴らしい。
現存天守だから、それなりに小奇麗に道中も整備しているのだとばかり思っていたけど、廃城感が悩ましいほどあっていい!凄くいい!!

宇和島城 石段

15分程登ると空が見えてきた。

宇和島城 石垣と空

ふと振り返ると、OH!!

二の丸口から宇和島現存天守

二之丸入口でついに天守お目見え(´_ゝ`)

二之丸は緑の落ち着いた雰囲気。

宇和島城 二之丸跡

本丸からは宇和島港が一望。
なんてすばらしい下膨れの平安美人的港。
九島が隠れ蓑になって、高虎好みって感じだなぁ(;´∀`)

宇和島城から宇和島港

天守には車寄せと言う唐破風の入口がある。
こんなに大らかに来訪者を迎えてくれる天守は比類がない。

宇和島現存天守

入口には伊達政宗の先祖が源頼朝から貰ったという「竪三引両紋(たてみつびきりょうもん)」があしらわれている。

伊達家紋「竪三引両紋(たてみつびきりょうもん)」

天守は9時からとなっているが、8:30すぎなのに入れてくれた。
料金200円というのも悪いくらい安い。。。もっと取って修繕費に充ててくれてもいいのに。

宇和島城 天守内部

天守からは宇和島港や城下、山々を見渡すことができる。
ほとんど山で、一方だけ海なのが宇和島という土地だということがわかる。

宇和島城 天守からの眺望

天守に障子とは珍しい。
現存天守で障子があるのは宇和島城だけらしい。

宇和島城 天守の障子

天守から出て本丸を眺める。
思いのほか大きい。天守も見た感じより大きいが、城郭としても本当はもっと大きいのだろう。

宇和島城 本丸

天守を降りたら晴れ間が出てきたので、天守の写真を取り直した。
さっきは曇っていて薄暗かったので、ラッキーだ(*´▽`*)

宇和島城現存天守

本丸の一角にちょこんとあるだけの感じだけど、千鳥破風と唐破風、なんといっても車寄せが絶妙に味を出していて、どの角度で見ても飽きの来ない意匠だ。

本丸から宇和島城天守

帰りは大手筋から降りる。
宇和島城にあった三つの井戸の内、もっとも重要視されていたもの。
郭の名も井戸丸といい、井戸丸御門・井戸丸櫓などで防御が固められていたという。

宇和島城 最重要の井戸

入口まで降りると、江戸中期創建と言われる、宇和島藩家老であった桑折氏武家長屋門が移築されている。

宇和島城 長屋門口

なんだか取って付けたような長屋門に、宇和島ではじめて拍子抜けを喰らい、一行は宇和島での短い滞在を終えるのであった。

もう一回、ゆったり宇和島でしてみたいな!

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12 四国最西端 日本一細長い半島!佐田岬

漢なら 一度はゆかん 佐田岬

日本一細長い半島の先端は、佐田岬。
四国最西端だ。さだみさきと読む。

八幡浜駅

佐田岬メロディーラインと呼ばれる国道197号は、かつては行くな(197)酷道とまで言われた酷い道だったが、整備されたことにより三崎まで景色を楽しみながら行けるようになった。

佐田岬 メロディーライン 山

ただし、三崎から先の道は国道ではないが酷道である。

佐田岬 メロディーライン 海

八幡浜駅から1.5時間以上かけてようやく駐車場に到着。
おばあちゃんが野店を開いていた。

佐田岬 岩礁

遊歩道を佐田岬灯台目指して歩く。

佐田岬 遊歩道

移動式探照灯格納庫。
不審船を見張った、いわゆるサーチライトの格納庫だ。

佐田岬 移動式探照灯格納庫

遊歩道の椿山展望台から、灯台と佐賀関が見張らせる。
絶景なり絶景なり(*´ω`)♪

椿山展望台から豊予海峡

それにしても半島も長いし遊歩道も長い。
30分ほど歩いて、ようやく灯台の入口についた。
腰痛持ちのおば、はるちゃんは途中で断念した、、、

佐田岬灯台へ

一九海里。約35km先まで照らす、四国最西端の佐田岬灯台についに到着!

佐田岬灯台

蓄養場。
海人体験もできるとか・・・

佐田岬 蓄養場

やりました。
こういう石碑を見ると、実感がわきます。

四国最西端 佐田岬

岬十三里と言われた、約50kmの長~い半島。
地図を見ると、ほとんど九州だねww

佐田岬最先端

ケータイ国盗り合戦という、位置ゲーをやっているんだけど、ここで位置情報を取得したら、山口県、大分県、愛媛県の三県六ヶ所もの位置情報を取得できてしまった。超楽しいw


ジジババは歩速が遅いから先に帰ってもらい、感慨に浸るのであった。

佐田岬の夕方

やがて西日が沈みゆく向こう側の陸、九州からこちらを望む日も来るであろう。
その頃には、もしかして、この狂ったように旅を続ける日々も、終局に近づいているのではないだろうか・・・

そんな予感を携えて、Nは四国最西端・佐田岬を後にした。

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11 田舎の要衝 大洲城

大洲城は、伊予の南北を貫く二つの街道、松山と大洲を結ぶ大洲街道と、大洲と宇和島を結ぶ宇和島街道の合流地で、西は土佐へ向かう峠道、東は良港・八幡浜と九州への玄関口・佐賀関へ細長く向かう佐田岬がある、交通の要衝であった。

Nは思うのだ。もし、松山に日本の首都があって、東京のような発展を遂げたならば、大洲はちょうど横浜のように栄えたのではないか。と。

日本というものが九州で発生したのであれば、ありえない話では無いような気もするが、もはや夢物語でもある。

築城は元徳3(1331)年で、豊前などに勢力を持っていた宇都宮氏が築いたのが最初である。
この城を近世城郭に仕立て上げたのが、 今治城などを手掛けた築城の名人・藤堂高虎や、賤ヶ岳七本槍の脇坂安治らである。

下台所から大洲城

石垣は算木積もない無骨一辺倒の野面積だ。

大洲城 野面積石垣

天守は平成16(2004)年に木造復元されている。
重要文化財指定の現存櫓も、本丸に二件、城外にも二件残されている。

大洲復元天守

暗り門跡という、辛気臭い名の遺構がある。
暗り門は天守へ至る城内最大の城門であった。
内部は真っ暗になっており、暗がりの中で混乱する敵兵を易々と討取れる構造だったようだ。

大洲城 暗がり門跡

復元天守の手前が、高欄櫓だ。
その名の通り、城内で唯一高欄が設けられていて、城内が一望できる。
貴重な現存建物として重要文化財指定を受けている。

本丸から大洲復元天守

同じく、右は台所櫓といい、城内で最大の櫓だ。
文字通り台所としての役割があったのだろう。煙り出しのための格子窓が設置されている。
こちらも重要文化財指定である。

大洲城本丸

大洲城天守は、地元住民の活動により明治維新期の破却を逃れた貴重な遺構であったが、吹き抜け構造や老朽化などで倒壊の恐れがあり、明治年間に解体されてしまった。

平成に入り、大洲市制50周年事業として当時の資料などからほぼ完全に、史実に忠実な木造復元を成し遂げた。

大洲城天守からの眺望

天守復元に当たっては、建築基準法も大きな障害となったが、2年間知恵を絞り折衝し、保存建築物として適用除外の認定を受け、往時そのままの天守が甦ることとなった。


天守からは肱川に寄り添って建つ苧綿櫓も見える。
こちらもまた、重要文化財となる。

大洲城天守から苧綿櫓

おわた櫓は江戸後期に大破したものを再建したもので、軍事というよりも装飾性が強く、川に向けて袴腰型の石落としや出窓が美しく配されている。内向きにはのっぺらぼうだったり、出窓のみだったりで、割と殺風景だった。

向こう側に、冨士山という、どこかで聞いた名の山がある。

大洲城 苧綿櫓

城下の狭い道をVOXYで一生懸命探し出したのは、三の丸南隅櫓。
建築は明和3(1766)年で、城内の現存最古の建築物である。
なかなか見つけられなかったが、これで大洲城の4つの現存重文櫓を制覇することができた。

大洲城 三の丸南隅櫓

大洲城の幾つかある別名の内に、比志城というものがある。
これは、「おひじ」という女性を人柱にし高石垣を完成させた際、そのおひじの最期の願いとして天然のお堀となっている川の名を肱川とし、おひじの住んでいた町も比地町、城の別名も比志城と呼ぶようになったという。

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10 坂の上の雲と松山城

まことに小さな国が、開花期を迎えようとしている。

司馬遼太郎は「坂の上の雲」の冒頭である。
2010年当時は、まさにNHKで年末に放映されていた時期だ。

日本という国は、米と絹以外に産業がなかった。

明治維新後の日本の歴史は、まさにそのために起こった騒乱の積み重ねであったと言える。
「鎖国」を終え、開国に当たり列強と締結した条約はまことに不平等なもので、それを解消するために日本はほとんど絶望的な日清・日露戦争を戦い抜き、ギリギリの勝利の先に待っていたのは坂の上の雲どころか、欧米の差別心に基く敵対政策だった。

「近代化」した日本にとって致命的だったのは、自国でエネルギーとなる資源を採れなかったことである。
今も変わらないが、要するに油を停められたら日本は枯れ死ぬのである。

坂の上には、日本より一歩先んじて世界に台頭したアメリカがいた。
日本は開国した時点で、この国とはいつかどこかでぶつかる運命だったと言える。

アメリカをはじめ列強に資源供給を停められた日本は、「最後」の絶望的な戦いに突入せざるを得ない。

大東亜戦争。

今でいう太平洋戦争はこうして起こるのだが、「坂の上の雲」の頃の日本人は、遠い未来に起こりうる事態を、多分、たぶんだけど脳裏に何度もかすめながらもあの時代を突き進まざるを得なかったのではないかと思う。

「坂の上の雲」のまち松山 スペシャルドラマ館

その、坂を上る原動力となる男を輩出したのが、つまるところ、この伊予松山城(城郭についてはこちらへ☆)の城下町なのである。

松山のまち

伊予松山藩は、徳川一門の松平家の藩であり、幕末は幕府側につき、大きな活躍もないまま朝敵とされる。
最終的には土佐藩に対し無血開城となるのだが、幕末の動きとしては地味に負け馬に乗った印象だ。

松山城天守の2010年

幕末に大きな役割を果たせなかった悔しさか、維新後に人物が出た。

日露戦争で勝利は不可能と言われたバルチック艦隊を破る作戦を編み出した秋山真之。
同じく、史上最強の騎兵と称されたコサック師団を破った秋山好古。
日本古来の俳句・短歌に写実性を取り入れ、俳句と短歌の息を吹き返した正岡子規。

である。

天守からの眺望 松山城天守

幕末、維新において、城は借景にもなり難い。
歴史を動かすのは時に強大な一人の権力者だが、この場合、多くの人物であった。

維新前後の日本の人物の出っぷりは世界史にも無いほど潤沢であり、その人物たちの熱量に引っ張られて日本史は動いたし、世界史にも大きく影響したともいえる。

この人物の開花は、しかし謎の枯渇をするのだが、やはり江戸という時代が育んだ土壌の上に出現すべくして出現したのであろう。

日露戦争の意義というのは日本史だけを見ていてもわからない。
世界史上、どれだけ白人が有色人種に対し優越していたかを見ないとわからない。

要するにあの頃の有色人種は家畜であった。
日露戦争での勝利は、絶望という言葉すら失っていた有色人種に、希望という言葉を一足飛びに思い出させる衝撃を与えた。

有色人種でも、白人に勝てる!!

その勝てる戦いを編み出したのが、このうだつの上がらない小藩の下級武士の、秋山好古、真之の兄弟だったのだ。


一方、正岡子規という人は、これは武人ではもちろんない。
彼は、松尾芭蕉の俳句に対し、簡単に言うと
「わかりにくい」と批判した。

春や昔 十五万石の 城下かな

松山城 坂の上の雲 天守

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

なんてわかりやすい。
法隆寺で柿を食べていたら鐘が鳴ったよ。
それだけなのだ。

松尾芭蕉の

古池や 蛙とびこむ 水の音

これもシンプルだが、水の音を聴くことにより、その周囲の静けさに気が付くといった雰囲気も併せ持っている。

素人なりの感覚だが、シンプルなのは似ているが、やはり少し違うようだ。

子規は、野球を日本に普及した功績もある。
ベースボールに「野球」を初めて当てたのは彼で、彼の「升(のぼる)」という名を「野」「ボール(球)」とモジッて野球としたのだ。
「打者」「走者」なども子規の訳で、2002年にはそういった功績を評価され野球殿堂入りを果たした。


はじめての松山城は、リフトを使用した。
あっという間に中腹に行けて、現存建物群にすぐ到達できる。

本丸の売店での愛媛みかんのカキ氷が美味しかった。
ギラギラ太陽とカキ氷の冷たさ、道後温泉で買った道後温泉うちわをパタパタしながら歩いた迷路のような本丸。

親父はどうも冥途の土産話にと思っているようだが、Nはいずれまた来るだろうな。
と思ったのであった。

伊予松山城(城郭についてはこちらへ☆)

テーマ : 城めぐり
ジャンル : 旅行

9 湯築城跡 ~温泉と共にある中世の名城~

3日目 2010.08.03(火)6:00

朝一で日本百名城の湯築城跡に行ってみた。
道後温泉からすぐ近くだ。

国指定史跡 湯築城跡

風早郡河野郷の豪族・河野氏の居城で、建武年間(1334年~1338年)に築城された、中世の城としては珍しい平山城である(戦国以前の城は基本的に山城)。

湯築城跡 庭園

一見しても、二見しても、何の変哲もない寂れ公園だ。

道後公園 広場

展望台からの見晴はなかなかで、松山城や市街地を眺めることができる。

湯築城跡展望台から松山市街

山には特に遺構らしい遺構は見つけられなんだ。

湯築城跡

ただ、平場ではそこそこ遺構が残っており、発掘もされていた。

城は二重の水堀がめぐらされ、地形を利用した構えになっていたであろう、当時の様子が窺える。

湯築城跡 内堀の岩盤

土坑からは備前焼、中国の陶磁器、丹波焼のすり鉢や土器などが出土しており、上述の岩肌を眺めながら一杯やったのではないだろうか。

湯築城跡 土坑

建物があったらしい場所はコンクリで区分けして、礎石のようなものも展示されていた。

湯築城跡 復元区域

庭園の池には景色を楽しむための施設の痕跡が見つかっている。
けっこう裕福だったのだろう。

湯築城跡 庭園の池

最大土坑跡。
儀式で使用したものなどのごみ溜めだったようだ。

湯築城跡 最大土坑跡

内堀と土塁。
そこまでの堅固さは感じられない。。。

湯築城跡 内堀・内堀土塁

家臣団の屋敷が復元されて、中ではサムライ達が評定を行っている。

湯築城跡 復元家臣団屋敷

河野氏は豊臣秀吉の四国征伐の際、小早川隆景に降伏し、やがて湯築城も廃城となった。

湯築城跡 にゃん猫

温泉地にある城らしく、日本最古の湯釜が置かれている。
天平勝寶年間(741-757)年間に造られたとされる。奈良時代だ。

道後温泉本館が建つまで、1150年間ずっと温泉を湧出し続けたという。

湯築城跡 愛媛県指定重要文化財 湯釜

湯釜には、神奈川の藤沢に遊行寺を開いた、踊念仏の一遍上人が彫った「南無阿弥陀仏」の6文字が刻まれているという。

今では湯釜薬師として親しまれ、温泉の守護仏として祀られている。


外堀はそれなりに幅があった。

湯築城跡 外堀

城でもあるが、栄華を誇った河野氏の御殿。
そんな印象が強い城だった。

温泉 + 城という希少な組み合わせが百名城選定の決め手なのだろうと勝手に推測したw

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ぬたーむ

Author:ぬたーむ

日本全国を巡ってます!
ひとつひとつの旅がつながりあって、いつか一本の壮大な物語になる!!
かもしれない☆
ブログはつれづれ、旅はガチ、歴史はぼちぼち
そんな毎日でありたいなw

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