中山道六十九次 12 高宮宿~鳥居本宿
「た、高宮までっ」
かすれて高ぶった声で駅員さんから切符を買う。電車の出発のベルは高々と高鳴っているが、幸いローカル電車の親切心で、切符を買う自分待ちをしてくれた♪
佐和山城跡から息つく間もなく走って、汗だくで彦根駅から近江鉄道で高宮へ向かう!
いざ、中・・・山・・・・・・道(おい、おい今日の歩き不安だな汗)
2012年5月12日(土)8:05 小雨
江戸日本橋から63次、京三条大橋から7次目の鳥居本宿へ、5.9kmの道のりをゆく!!

予報では曇後晴だったはずなのに、なぜか小雨がぱらついていた。
多賀大社一の鳥居横の常夜灯や標識

傘は持たない。歩くのに邪魔だから。よって、雨の日を避けて歩くのが東海道・中山道歩きの大原則だ。
夜バスを利用したのは東海道の御油宿の先から。さすがに名電赤坂から豊橋でJR東海に乗り換えて神奈川県まで帰ってくるまでが限界で、それ以降の歩きは天気予報と夜バスの予約状況を毎日何回もにらめっこしながら日程を決めてきた。今回は天気も夜バスも順調で、幸先良い筈だったのだけども・・・
割と古い町並みの雰囲気が残る

高宮宿は「高宮細美」とか「近江上布」と呼ばれた麻布の産出地で、今でも幾つかの蔵が残っており、布惣跡は宿駅 座・楽庵として、街道歩きのや町の人々の休憩所となっている。

明治三年の大洪水でほとんどの旧記を喪失してしまった高宮神社にお参りする。おそらく多賀大社とも関連があると思う。そもそも「高宮」と「多賀宮」は語音が似ているから、元をたどれば同じ名前に行き付くのかも知れない。
8:26

多賀大社の常夜灯と江戸側の高宮宿標識を左手に見つつ、鳥居本宿へ向かい、街道は続いてゆく。

街道沿いには、大分朽ちてしまっているが、土壁の家屋など、古い家並みが残っている。
8:37

応神天皇と神功皇后を祀った岩清水神社は、飛鳥時代からこの亀甲山と呼ばれる小丘に鎮座しているという。
岩清水神社には扇塚があり、かつて能楽の発展に力を入れた井伊藩によるもので、もともとは面塚と一対で存在していたという。
岩の間から滲み出た、文字通り岩清水の井戸跡も残る。大正六年の陸軍大演習のみぎり大正天皇に献上された茶は、この清水で沸かしたものであるという。
8:58

床の山を過ぎ、しばらく歩いて彦根ICの橋をくぐる。原村一里塚のあった辺りだろうか、原町の標識と天寧寺五百らかんの石碑が置かれていた。

その先、東山道当時の宿場だろうか?十所谷(とどころだに)の標識がある。

このあたりは、耕作地や荒野が続いている。
小野町は平安の時代の荘園、小野荘があったとされる場所で、小野小町が誕生した場所であるという伝承が残っている。
小町塚 9:10

聖谷は聖徳太子が合戦の時に一時隠れたという伝承がある。このあたりは狭い谷地であるが、東海道新幹線、名神高速道路に挟まれた現代の谷地でもあって、右手に高速、左手に新幹線と案外賑やかである。
田植が済んでいる所とまだの所があった

やがて中山道と彦根道の分岐点に至る。彦根道は、守山宿の先で中山道と別れた脇街道、朝鮮人街道の別称である。
9:29

そして、この分岐点のある百々村(とどむら)が、鳥居本宿の最南端となる!

雰囲気のある家屋が多く残る鳥居本宿の専宗寺には、佐和山城の遺構と伝わる太鼓門の天井がある。下の写真の、門の天井らしいが、見た感じツバメの巣があるくらいで実感はわかなかった。

鳥居本宿は雨具、合羽の産地であったが、ビニールやナイロン製の雨具の出現で衰退し、1970年代に製造は終了になった。今では数件の家屋の屋根に合羽の看板が掲げられているのみである。
合羽所「松屋」

脇本陣は問屋場を兼ねていたようだ。

本陣跡は、昭和十年ごろ、江八幡の町並みの所で紹介した池田町洋風住宅街(ヴォーリズ建築群)のウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計した洋館に立て直された。

なお、本陣の門は倉庫に転用され、現存している。
鳥居本宿本陣の倉庫に転用された門 9:43

て・・・
ちょっとみじめな感じ。。。
つづく
かすれて高ぶった声で駅員さんから切符を買う。電車の出発のベルは高々と高鳴っているが、幸いローカル電車の親切心で、切符を買う自分待ちをしてくれた♪
佐和山城跡から息つく間もなく走って、汗だくで彦根駅から近江鉄道で高宮へ向かう!
いざ、中・・・山・・・・・・道(おい、おい今日の歩き不安だな汗)
2012年5月12日(土)8:05 小雨
江戸日本橋から63次、京三条大橋から7次目の鳥居本宿へ、5.9kmの道のりをゆく!!

予報では曇後晴だったはずなのに、なぜか小雨がぱらついていた。
多賀大社一の鳥居横の常夜灯や標識

傘は持たない。歩くのに邪魔だから。よって、雨の日を避けて歩くのが東海道・中山道歩きの大原則だ。
夜バスを利用したのは東海道の御油宿の先から。さすがに名電赤坂から豊橋でJR東海に乗り換えて神奈川県まで帰ってくるまでが限界で、それ以降の歩きは天気予報と夜バスの予約状況を毎日何回もにらめっこしながら日程を決めてきた。今回は天気も夜バスも順調で、幸先良い筈だったのだけども・・・
割と古い町並みの雰囲気が残る

高宮宿は「高宮細美」とか「近江上布」と呼ばれた麻布の産出地で、今でも幾つかの蔵が残っており、布惣跡は宿駅 座・楽庵として、街道歩きのや町の人々の休憩所となっている。

明治三年の大洪水でほとんどの旧記を喪失してしまった高宮神社にお参りする。おそらく多賀大社とも関連があると思う。そもそも「高宮」と「多賀宮」は語音が似ているから、元をたどれば同じ名前に行き付くのかも知れない。
8:26

多賀大社の常夜灯と江戸側の高宮宿標識を左手に見つつ、鳥居本宿へ向かい、街道は続いてゆく。

街道沿いには、大分朽ちてしまっているが、土壁の家屋など、古い家並みが残っている。
8:37

応神天皇と神功皇后を祀った岩清水神社は、飛鳥時代からこの亀甲山と呼ばれる小丘に鎮座しているという。
岩清水神社には扇塚があり、かつて能楽の発展に力を入れた井伊藩によるもので、もともとは面塚と一対で存在していたという。
岩の間から滲み出た、文字通り岩清水の井戸跡も残る。大正六年の陸軍大演習のみぎり大正天皇に献上された茶は、この清水で沸かしたものであるという。
8:58

床の山を過ぎ、しばらく歩いて彦根ICの橋をくぐる。原村一里塚のあった辺りだろうか、原町の標識と天寧寺五百らかんの石碑が置かれていた。

その先、東山道当時の宿場だろうか?十所谷(とどころだに)の標識がある。

このあたりは、耕作地や荒野が続いている。
小野町は平安の時代の荘園、小野荘があったとされる場所で、小野小町が誕生した場所であるという伝承が残っている。
小町塚 9:10

聖谷は聖徳太子が合戦の時に一時隠れたという伝承がある。このあたりは狭い谷地であるが、東海道新幹線、名神高速道路に挟まれた現代の谷地でもあって、右手に高速、左手に新幹線と案外賑やかである。
田植が済んでいる所とまだの所があった

やがて中山道と彦根道の分岐点に至る。彦根道は、守山宿の先で中山道と別れた脇街道、朝鮮人街道の別称である。
9:29

そして、この分岐点のある百々村(とどむら)が、鳥居本宿の最南端となる!

雰囲気のある家屋が多く残る鳥居本宿の専宗寺には、佐和山城の遺構と伝わる太鼓門の天井がある。下の写真の、門の天井らしいが、見た感じツバメの巣があるくらいで実感はわかなかった。

鳥居本宿は雨具、合羽の産地であったが、ビニールやナイロン製の雨具の出現で衰退し、1970年代に製造は終了になった。今では数件の家屋の屋根に合羽の看板が掲げられているのみである。
合羽所「松屋」

脇本陣は問屋場を兼ねていたようだ。

本陣跡は、昭和十年ごろ、江八幡の町並みの所で紹介した池田町洋風住宅街(ヴォーリズ建築群)のウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計した洋館に立て直された。

なお、本陣の門は倉庫に転用され、現存している。
鳥居本宿本陣の倉庫に転用された門 9:43

て・・・
ちょっとみじめな感じ。。。
つづく




